馬ゆかりの観音さん(1) 大祭  

(一)祭典概要
草競馬奉納幕を前に、原田小3年生に、昔のお祭りの説明をする住職(1999年3月4日 春大祭) 



 妙善寺では、毎年旧正月十七日(春祭)と、旧七月九日の晩(夏祭)の二回、観世音菩薩報恩供養祭を、昔から実施してきた。昔は三十三年に一度の開帳だったが、現在では、春祭夏祭に開帳する。

 大正四年から、「原田村馬持連」発起で「瀧川観音競馬倶楽部」が結成された。境内で草競馬を催し近村の農耕馬が数十頭も集まり盛大であった。此の地方随一といわれた鈴川の毘沙門祭に次ぐ高まちであった。


 農耕も交通も機械化が進むにつれ、自然に牛馬が姿を消し、昭和三十六年に出場馬がなくなり中止。その賑わいはもはや昔語りとなってしまった。

 競馬会解散直後、「瀧川観音奉讃会」と改めた。当時、会長田中豪一郎、副会長神尾萬作、川口精一の諸氏であった。お堂の西側に踊り舞台を設け賑わいはしたが、やがて中止した。

 夏祭は旧七月九日の晩から十日にかけて行われた。旧七月九日は四万六千(しまんろくせんにち)日(にち)の功徳日に当たるといわれ、夕涼みを兼ねての参詣人で賑わった。
「両側にはられた夜店の商人は地元の商人で大方顔見知りであった。カーバイトの匂いや、トウモロコシを焼く匂いがあたりを包んで、参道を行く人たちも夜祭の情緒に浸ったものだった。草の上では畑からとりたてのスイカのゴロ売りなどもあり、忘れ得ぬ光景であった。十日には村山からお詣りに来られた人たちがあったが、今はない」(とく談)

 大東亜戦争(第二次世界大戦)頃から地の商人が姿を消した。戦後、祭が復活したが、昭和二十六年富士市制が置かれ、吉原・富士の市街地が賑やかになる頃より、夏祭の商人が減った。今は全く姿を消した。


(二)草競馬の様子
@大正六年の新聞記事
「富士郡原田村瀧川妙善寺觀音の開帳は去る八日執行したが本年は例年に比して人出多く競馬数百五十餘頭にて午前十時頃より午後五時迄に四五頭を一組として三十回の競馬あり。勝馬三番迄景品を與へ原田製紙、瀧川製紙、杉山工場其他より寄附せるは優勝旗、反物、馬具、下駄等の種類にて見物人の為め境内雑沓せるも怪我人等なく無事にて翌九日も前日に引續き競馬會ありしが見物人中最も人目を惹きしは吉原町山本家の菊龍(二十二)といふ身長五尺二寸目方十五貫の藝妓にして掛茶屋の筵の上に座り込みコップ酒を呷(あふ)り呂律も廻はらずなりて馬が駆け出すたびに自身も飛び出し居たりといふ。」『静岡民有新聞』(大正六年二月十日)

A古老の問わず語り(宗深記)
■優 勝

 草競馬の景品は、茶箪笥、下駄箱、桐箪笥。優勝すると景品を背負って馬場を一周した。
 八百長は当たり前で、「こんどはお前が優勝しろよ」というような駆け引きがあった。
 正面の石段の上あたりはよく事故があった。 
 草競馬が終わると、こんな足の太い北海道馬が、酔っ払いを乗せて、夕暮れにぞろぞろと山へ帰っていく姿が忘れられない。みんな満ち足りた顔をしていた。(1999年3月4日 鵜無ケ淵・勝又英行さん談)

■外から来た馬に優勝旗や桐箪笥などの景品を取らせるようにした。
■お供物の鏡餅は二段。
■寄附は当時の「百円札」(今の一万円) 馬が事故にあわないよう馬主が奉納した
■中山鉄工で、よくいろいろな物を上げてくれた
■事故は、横切った時に馬に蹴られて一人亡くなっている。金子さんという方のご親戚
■奉賛会役員さん (地域の持ち回りで当番)
田中富作さん…寄附集め
川口精一さん(都起洋さんの親) …観音さんの写真
西尾 さん
神尾万作さん
神尾 稔さん(役員の中では最年少) 中島
望月幸作さん
小林幸作さん
鈴木初蔵さん
大石  さん

■露天商
 根方の後藤篤さんの家の所まで続いていた。
 (石段下の「南無観世音」の碑は、元は後藤さんの家の前にあった)…大石さん談

■子ども
滝川の子どもは、朝、坂を登る露天商のリヤカーを後押しする手伝いをして駄賃を稼いだ。そのため遅刻が許された。
また、お祭には自転車で来る人が多かったので、諏訪部さんの横に駐輪場を作って小遣いにした。

■観客席
馬場の東斜面(三中グランド西)は、日当たりがよく、真冬の観戦には格好の観客席だった。みんな弁当を持ってきてそこで食べていた。
 山の人(間門・鵜無ケ淵方面)は、上から来てここで見て帰るだけだった。
 というわけで、お賽銭はなかった?らしい。

■酔っ払い
船津から来た人で、ひどく酔っ払ってしまった人がいて、馬の背中にくくりつけられて帰っていった。
(川口安雄さん談)

■旗きり(大旗を振る係)
 飛び出したい馬を旗手が手綱でやっと抑えている前で、旗きりは「やい、やい、やい、やい…」と言いながら後ずさりして逃げながら、そろったところで旗をきる。




■名人「旗振り平(ひょう)さん」
 大正末期から昭和の初めにかけて、旗振りで有名だったのが「旗振り平(ひょう)さん」(平之助)と、飯塚広作さん。
 コースはくじ引きで決める。札を引かせて1番札から選ぶ。みんな内輪のコースを狙っている。
馬が一列にそろうまで待つのだけれど、なかなかそろわない。準備ができるとピストル代わりの大きな赤旗を振る。両手振りながら「やーい!」って号令の大声出して、そろったところでスタート。
「そろわないいとに飛ばすと、ああだこうだとうるしゃあだぁ、酒ひゃあってるし。だから、鼻っ柱つよい人でないとつとまんなかったね」
 
■本部に勝負を見る人がいて、旗手の頭(帽子)の色と同じ旗を、
「竹の筒んぼ」へさす。わかんなくなっちゃうから。



■コースと柵作り
 勝負は普通三周から五周。最後には、七〜八周になったこともあった。やたら嫌がって柵を飛び出す馬もいた。
 六尺(約180a)位の杭(くい)をなわでしばった。毘沙門さんの祭りの日(一週間くらい前)に馬持ちが出てなわをはった。




■馬持ち
 祭りの日、馬持ちには、天幕張って簾(す)をまいて酒を飲ました。
 乗る人(騎手)は、県の組合(三島)から来た。
 『馬匹(ばひき)奨励法』という軍馬にかかわる法律があり、当時は人間の次に軍馬が大切にされた。

■馬繕(つくら)い場
 観音堂の石碑のあたりに「馬繕(つくら)い場」があった(のちに馬場の西側に移った)。
これは太い丸太を長方形に組んだもの。一方は馬の巾、片方は馬の長さほどに立て、其の上に簡単な屋根を張ったもの。



年に一〜二回、「伯楽(はくらく)さん」という、今でいう獣医さんが来て、鉄を真っ赤く焼いて、灸をすえたり、しっぽを焼いたりした。口の中をつついて…をふやす
 これは、お祭りのときではなく、あわい(間)にやる。優良馬をつくるため。
 軍馬は、飛行機や戦車を作るのと同じくらい大事だった。





■水車と搗屋(つきや)
 原田製紙が明治二十七年にできたが、当時、車はなく、馬に荷を引かせた(馬力)。
 瀧川には水車がたくさんあった。 史料  駿河郷土史研究会『駿河』創刊十周年臨時号87ページ

滝川の水車

 飯塚さんのが大きかったが、ほかにも黒川さん、小野さん、川口さん、石川さん…と何軒もあった。
 水車には搗屋(つきや)があって、穀物を粉にするのに使われていて、馬持ちはけっこう儲かったという。
 というのは、当時のお百姓さんは貧しい暮らしをしていて、田んぼをやっていてもお米を食べることはできなかった。「ここいらの百姓は、毎晩(みゃあばん)蕎麦を打って食ってた。おふくろが、毎晩(みゃあばん)うどん、蕎麦を打ってくれた。米は尊いからね」(勝又さん 明治四十年生まれ 八十八歳談)
 厳しい生活を乗り切るために、お百姓さんは、「農家へ、てんだい(手伝い)に行ったり、馬を飼って『駄賃取り』したり」していた。つまり、搗屋で粉をひく材料の穀物を運んだり、搗いた粉を運んだり、という運搬は馬が主役だった。

■馬持ち
 ここ瀧川は、小さい村の割に馬が多かった。当時、世帯数が百二十〜百三十軒だったのに、「馬持ち」は十数軒もあった。
 内田しょうちゃん(源一の父)、 神尾(炭屋)、彦さん(後藤和彦)、杉山勇次郎、豆腐屋(後藤とおる)、中川鶴作(中川淳の父)、げんじゅうりい(鈴木保)、西尾久米作、飯塚さん、三好宗作、勝又平之助、しょうちゃん(鈴木正作)

■農家と年貢(仁藤さん調べ)
明治二十七〜二十八年の頃、一般的なお百姓さんの農地は、一軒「田が二反、畑が五反」。
 一反の田でとれる米はだいたい六〜七俵。そのうち大家に納める年貢が四俵。畑の年貢は一反につき一俵。(十二〜十四俵の収穫のうち、十三俵が年貢になってしまう計算になる。米は年貢をやるために作っていた)
 年貢を納めると、米はほとんど自分のもとには残らない。大家族を抱え、家で食べるものは何もない。
 米はといえば通常は、「しいな米」という折れ米(不良品)を粉にひき、団子にする。そして朝の「おしるに」に千切り餅として入れる程度。盆・正月でないと、白米は食べられなかった。
 この辺では、宇東川の小沢さん、比奈の渡辺さん、富士の松永さん(博物館の長屋門)が大地主だった。

■レース模様 
 祭りは、馬持ちが当番制で、餅をついたり、寄附を頼んだりした。
 優勝旗は、吉原の商店街の寄附が多かった。これは優勝するともらえた。お供物の餅は、二日間の最後のレースの優勝者のもので、一俵ぐらい。騎手が背中に背負って回った。
 農耕場、馬力馬だけで走るので、ショーバイ馬(競馬馬)は一頭で走らせ、商品持って帰ってもらう。
砂山(鈴川)に本競馬があって、そこからも参加していた。
 同じ馬が一〜二回走る。
「へたぁすると、いっきゃあも(一回も)とべないで帰ることがある。優勝してお供え餅もらった人は、家へ帰って『祝い』。勘定が合わない」

■切り込み
 西尾さんに聞いたところによると、切り込み(出走組み合わせ)は、地方を上手に分けて散らして、
来年もまた来てもらえるように工夫した。

■道しるべ
 以前は、後藤さんの家にあった。「これより北へ六町」(約650m) と刻まれていて、下にはもっと大きな台があって立派な作りだった。

■審判席
 観音堂北側の大きな椎の木の所が審判席だった。
 馬の垂れ幕(奉納幕)をまわし、優勝旗、景品が並んで賑やかだった。花火がなった。

 不思議と事故は起きなかった。飯塚さんが、「それとぶぞー、気をつけろー」とメガホン持って叫んでた。ケガは少なかった。




■観客席
 今の佐藤さんのあたりはよく見える場所だったので、人で黒くなるくらいに集まった。当時は楽しみが少なかったから、祭りになると、滝川の家々では親戚縁者が集まった。

■見せ物
 旧本堂(藁葺き屋根)の前には、からくり小屋が建った。
 境内中、商人がいっぱいで、お堂の前にはバナナの叩き売りも出た。西の方には、酒を売る一杯屋。
 道の西側は「切れ込み」といって、馬が待機していた。山の神さんに馬をつなぐ人もいた。商人は、永明寺のほうまでいた。

■寄せ太鼓
「馬、あつまれー」という時には、寄せ太鼓が、ドーンドーンと鳴る。終わった合図は、ドンドドンドン。
 スタートする時は、両手振って鼻面そろえさせる。 すぐ逃げなきゃ、あぶにゃあ。旗をきると、ふっと手綱をゆるめる。
 悪(わり)い馬もあって、こんな高(たきゃ)あ柵、飛び越しちゃった。
 一回に、五〜六頭とんで、賞品は三等ぐらいまで。優勝すると「馬場見せ」といって、優勝旗を持って馬場を一周回った。
 三等は、下駄なんかだった。


■ダルマ
毘沙門さんあたりの売れ残りのダルマを持ってきて商いしてた。

■馬場の草刈り
 草は「ゲス(肥え)」になった。
「ゲス」一架は、もちごめ一升に換算で、もらって歩いた。もらった家には、お礼に餅(お札?)を配って歩いた。


■夏祭り
 氷屋が、大工さんのカンナの倍ぐらいので削った。イチゴが2銭。シロップは10銭。砂糖水1銭。 「2銭硬貨持ってな、喜んで観音さんにとんでった」

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