「富士ニュース」平成21年12月21日(火)掲載

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Meiso Jouki

 もうお忘れかもしれませんが、子どもの頃、親や先生に叱られて、「ごめんなさい」と泣きながら謝った経験はありませんか。でも、残念ながらその後も同じ失敗をくり返し、そのたび「ごめんなさい、もうしません。本当に、もうしません」と誓った経験はありませんか?
 意外に思われるかもしれませんが、今、一日のうちで私がいちばんたくさんお唱えするお経は、この「ごめんなさい」のお経なのです。
 朝の勤行で場所から場所を移動するとき、ずっとこのお経を静かに唱え続けていることを、おそらくは家族も知りません。『懺悔文』という短いお経です。

「我昔所造 諸悪業、
 皆由無始 貪瞋痴。
 従身口意 之所生、
 一切我今 皆懺悔」
(私がこれまで造ってきた諸々の悪業は、はてしない「貪り」と「怒り」と「思い込み」によるものです。身体と言葉と心によって生じたこれら一切を、私は今すべて懺悔いたします)

私たちは、意識するしないにかかわらず、日々さまざまな小さな悪を繰り返しがちです。
(不注意で小さな生き物を殺してしまった。食べ残しをして食べ物の命を無駄にしてしまった)という、身体がなした悪。
(心ないことを言ってしまった。言い過ぎてしまった)という言葉での悪。
(もっと欲しいなぁ。あれも、それからあれも)
(あの人ばっかり…いいなぁ、うらやましいな)
(なんて憎たらしい、図々しい、いまいましい腹が立つ!)
(いきなり割り込んできて、何て強引な車だ。危ないじゃないか!)
 欲や怒りや、うらやんだりねたんだり…心の中にはいつも、小さな乱れ(悪)が生まれては消え、消えては生まれてきます。
 こういった「悪」に対して、いつも謙虚な自分でありましょう、というのがお釈迦さまの教えの原点です。だからこの「ごめんなさいのお経(懺悔文)」を、お坊さんは大事にするのです。お釈迦さまの時代には、何か仏教の集まりがあるたびに、全員で、まずこの言葉を唱えたそうです。実はそれくらい、私たちは小さな悪を犯しやすいのではないのでしょうか。だから何度も何度も懺悔するしかないのです。
私の尊敬する昭和の名僧・山本玄峰老師に、こんな言葉があります。
「人に恩を受けたならば、必ず恩を返せ…借りをしないのは物品や恩だけでなく、人に対して思ってはならぬようなことを思った場合、例えばあいつは嫌な奴だなぁとか、あんな人間は不幸になればいいんだ、などと良くない心が起こった時には、すぐ心の中で申し訳ありません、と懺悔の心を起こして、悪い心を帳消ししておけ」と。
「ごめんなさい」と同義の「すみません」は、相手に申し訳なくて「心がいつまでも澄み切らない」という意味だといいます。本当は、一日に一度くらいはこうして自らの思い上がりを省みるのがいいのですが、せめて年の瀬に懺悔の思いに謙虚に心を寄せてみるのも、幸せに生きるひとつの道しるべなのです。


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明窓浄机

懺  悔

文・絵 長島宗深