「富士ニュース」平成22年9月28日(火)掲載

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Meiso Jouki

十数年前、禅の修行道場にお世話になっていた時、秋に『観楓祭』という行事がありました。寺所蔵の掛け軸の虫干しを兼ねて内部を一部公開し、その日に限っては、一般の方々も拝観できるという特別な日でした。
 ここだけの話ですが、私はこの日をひそかに心待ちにしていました。なぜなら、修行中は離れて暮らし自由に会うことのできない家族の姿を目にできる、絶好の機会だったからです。

 とはいえ当日の私は会場係であり、それ以前に修行中の身ですから、堂々と談笑することはできません。子どもたちもそれを言い含められていたのでしょう、家内に連れられた、当時小学生の三人の子どもたちは、不器用に「他人」を装いながら、修行姿の私の様子をたえずうかがっていました。私は私で、同じ一つの空間の中で家族と共に時間を過ごすささやかな幸せを感じていました。
と、しばらく時が過ぎ、子どもたちも見知らぬ場での緊張がとけてきたのでしょう。小学四年生の次女が、人目を気にしつつも私のそばに近寄り、ポツリと小声でつぶやきました。
(お父さん、あの字、雑だね。もっとていねいに書けばいいのに)
…娘が自信たっぷり指さしたのは、畏れ多くも臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の書でした。書道に興味を持ち始めた彼女の目には、かの高僧の書も、雑ななぐり書きにしかうつらなかったようです。
禅では、悟りをひらいた禅僧の書や画を特に「墨蹟」と呼んで、とても大切にします。それはたとえば、みなさんがお仏像を拝む気持ちと同じです。ですから禅僧はこの墨蹟の掛けられた床の間の前では、五体投地という最高級の礼拝をして敬意を表すほどです。

 さて、この墨蹟に相対したとき、みなさんの中にいろんな印象が湧くことでしょう。(すごい迫力!)(達筆だ)(さすが)と、すんなり受け入れられるものもあれば、正直言って(全然読めない)(曲がってる)(バランスが悪い)とマイナスイメージがおこることもあるでしょう。
 それは無理のないことです。でも、みなさんがもたれた直感は、実は私たち禅僧にとって、あまり大きな問題ではありません。なぜなら、得てしてみなさんがされた評価の多くは、おそらく自分の「我」…いわば「色眼鏡」越しの判断だからです。

 禅では、墨蹟はすべてそのまま禅僧の悟りの表現と受け止めます。それはたとえば、お釈迦さまが、笑っていても、泣いていても、また怒っていたとしてもすべて「お釈迦さま」であるのと同じです。上手く書いてやろうとか、みんなに褒められるように書いてみようとか…そういった見栄も欲も離れた、ありのままの禅僧の心が文字に丸出しに表れているのです。
 秋の乾燥した季節には、普段丸めて保管されている掛軸を寺院内部にずらりと掛けて風通しをする恒例行事を、さながら豪快にしぶきを上げる幾筋もの滝に見立てて「瀑涼」と呼び、展示会を催す寺院が各地にあります。墨蹟を通して禅の悟りの世界を味わってみてはいかがでしょうか。



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明窓浄机

墨  跡

文・絵 長島宗深