「富士ニュース」平成22年12月21日(火)掲載

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Meiso Jouki

  今朝、季節外れのミニトマトを八つ収穫しました。おかしな天候が続いたせいか、息も白くなる今頃になって一斉に実り、順番に色づいてきたのです。ぷちっと千切るたびに香る青臭さを楽しみながら、採った赤いトマトを両手に受けて見つめ、心の中でこう語りかけます。(せっかく時間をかけて、やっときれいに赤くなったのに申し訳ないねぇ。でも、おいしく食べて、張り切って原稿書くからね)。すると、(いいよ。はりきって、いい原稿書いてね)と、ツヤツヤ輝いて答えてくれます。以心伝心、といったところでしょうか。

私は、生命への慈しみのまなざしは、たとえ相手が野菜であっても必ず通じるものだと信じています。
 もちろん花も同じです。
 朝、境内の掃き掃除をすませて玄関前に打ち水をするのは、とても楽しい日課です。その最後の仕上げに大きな手水鉢の水を入れ換え、そこに投げ入れる一枝の花を手にするとき、いつも同じ思いに包まれます。それは、(この花のいのちを、私は今、この手に預かっているんだなぁ)という素朴な感慨です。
 これからしばらくの間は、山茶花が訪れる人を出迎えてくれることになりますが、この花は私に摘まれるとき「嫌だ!」と口に出して拒否することはしません。逃げ回ることもしません。抗うこともなく、ただ、黙って私に摘み取られるのです。無条件で、そのいのちを私に託すのです。

 そんなとき、思い起こすのが、生まれて間もない赤ちゃんを、おそるおそる両手で抱きかかえたときの緊張感です。
 私もこれまでに、三人の我が子を始め、(和尚さんに抱っこしてもらうといい子に育つと昔から言うからお願いします)と頼まれて、首のすわらない赤ちゃんを何人か抱きかかえたことがあります。何も知らず、何をされているかもわからないままに、私に自分のいのちを託す赤ちゃん。そのいのちを、わずか一時とはいえ、この両手両腕に預かる私。
 大げさかもしれませんが、この「いのちを預かる」という厳粛な思いにも似た感慨を、いつからか一枝の花にも感じるようになったのです。
 花にそんなまなざしを向けたあと、心の中で語りかけます。(せっかく咲いたのに切ってごめんね。今日からここで、お寺の玄関に来るお客さんの心を和ませてほしいんだ。頼むよ…)と。
 そうすると、不思議なことに花が応えてくれます。(わかった! そういうことならいいよ。まかせておいて)と…。まるで小学生が得意の仕事を先生に頼まれて、意欲満々「はいっ!」と応じるような、そんな誇らしげな表情を一瞬浮かべるように思えるのです。私の思い込みといえばそれまでですが、そう感じてしまうのですからしかたありません。
 花にもいのちがあります。私たちと同じように。ならば、私たちと同じように、幸せに一生を送りたいという願いがあってもおかしくないではありませんか。
 今朝は、濃いピンク色の山茶花に、歳晩の玄関のおもてなしをお願いしました。いつものように、いのちへのたっぷりの感謝の心を込めて。


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明窓浄机

文・絵 長島宗深

いのちへの感謝を込めて