「富士ニュース」平成23年3月15日(火)掲載

152



Meiso Jouki

 二度にわたり世間の注目を集めたお騒がせの噛みつき猿「ラッキー」の逃走劇。ご当地富士市でも、通過情報が逐一インターネットや広報で報じられていましたが、申年生まれの私にとっては、ちょっと気になる毎日でした。

■ 妙善寺近辺に目撃情報が出たときには、私も(ひとつ捕まえてやろう)と本堂を開け、窓のそばの机にはお菓子や果物を並べ、座布団まで用意して来訪を待ったのですが…残念ながら接待がお気に召さなかったらしく、目撃者の話では境内を横切って通過していってしまったそうです。
 このラッキーが、再度御用になった時の映像は、私にはとても印象的でした。自らの不注意で檻から逃がしてしまったという飼育員さんが、路上のラッキーに声をかけながら近づき、抱きかかえるというより必死で覆いかぶさった姿は、目に焼き付きました。(どんなに暴れても、噛みつかれても絶対に放すものか)という並々ならぬ覚悟がその後ろ姿に感じられたからです。
 とにかくすばしっこくて、利口で、なかなか捕まえられなかった猿。

 仏教に「意馬心猿」という味わい深い言葉があります。暴れる馬や、騒々しく走り回る野猿は制することがむずかしいことを引き合いに出して、私たちの「心」がいかにコントロールしづらいかを示唆した言葉です。
 先日の観音大祭では、馬にまつわる伝説にあやかり、例年のように子どもたちの乗馬体験の場を設けました。私もいつも少しだけ乗せていただくのですが、馬は人の力量を見抜くというように、遠慮がちに接する私はすっかり見くびられ、ちょっと蹴ったくらいではびくともしません。スピードを怖がって手綱を引いてばかりだと全然進んでくれません。素人とはいえ、まるで思い通りにならないのです。おとなしい乗馬用の馬でこうなのですから、寺に伝わる伝説の荒馬・鬼鹿毛など…。
 こう考えると、まさにわが心も「意馬心猿」。確かに思い当たります。

 五欲といわれるように、自分の心から生まれた財欲・食欲・睡眠欲・色欲・名誉欲などの欲望は、ちょっと油断すると、私たちの心を支配し引きずり回そうとします。
 あれこれ思い煩う煩悩や妄想も同じです。自分で自分の悩みの種を作ってしまうのです。暴れ馬やお騒がせの猿を、私たちは自分の心の中に飼っているのです。これを野放しにすると大変なことになります。
 悟りをひらかれたお釈迦さまにそなわった十種類の徳をたたえる表現の一つに「調御丈夫」があります。自分の心をよく調えられたお方、という意味です。

 意外に思われるかもしれませんが、私たち禅宗では、この心のあり方をとても大事なテーマしています。ある老師さまは「心こそ心惑わす心なり。心に心、心許すな」と戒められましたが、何度も出てくる「心」の文字。よく読んでみると意味の違いがおわかりでしょう。
 なかなか厄介な、わが心…その心の「飼育員」の一人が、仏教の教えと言えるかもしれません。 

おはなし 目次に戻る
明窓浄机

文・絵 長島宗深

意馬心猿