「富士ニュース」平成23年7月5日(火)掲載

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Meiso Jouki

 夏の涼「緑のカーテン」にと植えたゴーヤが、日に日に葉蔭を広げています。ネットを頼りに上へ横へと自在に伸びるその生長ぶりはなかなか頼もしいものですが、植えた当初はそうではありませんでした。
 白っぽいツルが、ぴよ〜んと両手を広げたように伸びて、心細げに行き場を求める苗が何本もありました。別のプランターでは、我慢しきれず隣同士の苗を支柱代わりにして引っ張り合い、共倒れ状態になっているものもありました。思わず(ごめん、ごめん)と謝って支柱を立てると、翌日には上手にくるくると巻き付いていました。もうすっかり安心したように、頼り切って。
 その姿を見て私は、(植物にも、頼りとして身を寄せる場所…「寄る辺」が必要なんだなぁ)としみじみ感じ、当時寄せられていた相談に思いを重ねたのです。

 相談の主は、齢七十を超えた知人でした。最近、急に心が不安になった、とおっしゃるのです。
「この先、何を信じ、何を頼りにしていったらいいのか、わからなくなってしまった」という問いかけでした。
 長年続けてきた仕事も一線を退き、今は後進に道を譲られました。現役時代には、本当に真面目で人柄もよく、能力もあり、何ごとにも一生懸命…という、私も尊敬する、人生の大先輩でした。そうした方の「つぶやき」に、私もすぐには返事が見つかりませんでした。
 その日からいろいろと考えてみました。そして、ふと思い当たったことがあるのです。
 それは、その先輩の人生に正しい宗教とのご縁がなかったかのではないか、ということでした。自分で何でもできてしまうから、あえて何かに頼る必要もなかった。そんな生き方で、七十年が過ぎてしまったのかもしれません。
 私たちは誰でも自分なりの「人生観」や「価値観」を持っています。普通の状況ならば、おそらくこれで十分なのでしょうが、私たちの前には、時としてうろたえざるを得ないような厳しい現実が立ちはだかることがあります。そんな時、しっかりした「心の寄る辺」を持っているか否かで、生きる力の湧き上がり方が違うように思うのです。

 ある老師は若者から「私は自分なりのしっかりした人生観を持っているから、宗教は必要ないと思うのですが…?」と問われ、「宗教とは、自分が生きていく根本的な力を手に入れるもの。お前さんのいま持っている人生観は、六十、七十、死にかけたときにも役に立つか? せいぜい三十五くらいまでしか通用しない人生観じゃないのか」と答えられました。
 たとえどんな場面に直面しようとも、最後には「寄る辺」として、私たちの支えになってくれるのが、本物の宗教というものでしょう。

 仏教では、お釈迦さまは、「この世は思い通りにならない。それを、思い通りにすることにこだわりすぎるから、苦しみが生まれる」と見抜かれ、「苦」を教えの大前提にされました。思い通りにならないことの代表が生老病死の「四苦」です。この、誰もが逃れることのできない厳しい現実の中で、それでも、四苦に振り回されすぎず、その場その場を受け止めて幸せに生きていく、その「寄る辺」を示しているのが仏教なのです。

 さて。みなさんは、どんな「心の寄る辺」をお持ちですか?

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明窓浄机

文・絵 長島宗深

寄 る 辺