「富士ニュース」平成23年11月22日(火)掲載

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Meiso Jouki

 寺務所の窓越しに、白い大きな鳥の姿を見つけました。本堂前の芝生の上を、時折立ち止まりながら、ゆったりと優雅に歩いています。白鷺です。

 体長約一b。ふだんこのあたりではめったに見かけない鳥です。鮮やかな緑の芝生と白のコントラストに思わず息をのみました。(なんて堂々とした美しい姿だろう)…うっとり見惚れながらも、感動を分かち合おうと写真を撮り、帰宅した家内に見せに行くと、
「さっき和尚さんが留守の時、私も見たよ。目の前にいたからびっくり。大きかったぁ。でも、それより、そんな呑気なこと言ってて大丈夫?(笑)玄関の池の所に立ち止まって、じーっと金魚狙っていたみたいだったけれど…」
 どきっとした私は、あわてて玄関を飛び出して池をのぞき込みました。水面は濁り静まりかえっています。金魚の姿は見えません。きっとどこかに隠れているんだろうと水草の下や岩の奥を探しましたが、どこにも気配はありません。三十匹以上いた金魚は、ものの見事に、全部食べられてしまったようです。さっきの悠然とした白鷺の後ろ姿は、満腹の後の、満ち足りたお散歩だったのでしょうか。
 そう思った瞬間、鷺に対する先ほどまでの好ましいイメージは全く消え、悔しさだけが残りました。
(私の金魚を食べた! せっかく私が買ってきて、餌もちゃんとあげて育てた『私の金魚』なのに。やっと大きくなったのに。お寺参りで玄関に来る子どもたちがのぞき込んでは喜んでいたのに…あの鷺め…憎きヤツめ!)

 そんな私の心中を察したかのように家内は、
「まあまあ和尚さん。それはしかたないよ。鷺だって何か食べなければ生きていけないんだから。鷺にとっては、『どうぞお召し上がり下さい』っていうくらい格好の池だったんだよね」
と慰めてくれました。
(それもそうだ…)と、一旦は納得したものの、煩悩まだ多き生身の私は(そうは言ってもなぁ、やっぱり悔しいよ)と、どこまでも未練がましくもう一度池の中をのぞき込むのでした。
 それにしても、あまりにも現金な自分の心の豹変ぶりには、我ながら恥じ入るばかりでした。
 確かに私がお金を出して買い育てた金魚ですが、金魚の「命」は私のものではありません。この寺で育てさせていただくご縁にあずかっただけのことで、命は決して私個人のものなどではないのです。
 それだけではありません。金魚の命には「大切・かわいい」とレッテルを貼り、一方の鷺の命に最初は「優雅・堂々と美しい」と貼ったレッテルを、「憎い」と貼り替えた身勝手さ。

 一時とはいえ、和尚でありながら、実にひどい勘違いをしたものです。
 ふと気を取り直して前を見ると、お腹の大きなカマキリが壁にしがみついてじっと獲物を狙っているのに気づきました。さらに見上げると池の上には大きなクモの巣が張られ、千匹近い小さな羽虫が捕獲されていました。そして、そのさらに上に広がる秋空のには、赤とんぼの群れ。
 金魚にばかり気を取られていて気づかなかったのですが、ただ見渡しただけで、こんなにもたくさんの生の営みが、当たり前のように続けられていたのです。いかに私は自分に都合のいい色眼鏡だけでまわりを見ていたことか。
「鷺の命。金魚の命。カマキリの命。クモの命。羽虫の命。赤とんぼの命。そして…私の命。どの命も一回きり。一個ずつ。みんな同じ重さ」
 反省を込め、いつしか何度もこんな言葉を繰り返していた私でした。

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明窓浄机

文・絵 長島宗深

私の金魚