「富士ニュース」平成24年3月20日(火)掲載

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Meiso Jouki

「お父さん、あとできっと首や肩が痛くなってるよ。抱っこしてるときは平気なんだけどね。ほら、つい赤ちゃんの表情に見とれて、うつむいて顔をのぞき込むでしょ。知らないうちに時間がたって、すっかりと凝ってるんだよね」
 先月末、初孫が生まれ、「じいじ」になりました。今この寺に里帰りしている長女のこのアドバイス通り、うれしい肩こりの毎日です。
 腕の中にすっぽりと収まってしまう孫をあやしていると、いつしかすやすやと眠りに落ちます。何の疑いも不安も抱かず、すべてを私に任せきり、安心しきったようなその寝顔を見るたび、かつて「親」として三人のわが子を抱いたのとは少し違う使命感が生まれます。(これからこの子の両親は、必死でこの子を守り育ててくれるだろう。心配ない。では、なにか私にできることはないだろうか…ささやかでもいい、この孫と、その親のためにできることは?)と。

かつて、私が属する臨濟宗では、明治時代になるまで、お坊さんの妻帯は許されませんでした。その禁をもし住職が公然と破れば、島流しの刑が待っていたといいます。とても今の私のように、にこにこと孫をあやす世の中ではなかったわけです。
 今、この日本の社会では、お坊さんが結婚し、子や孫と暮らすことは、ごく普通の光景になっています。かつてと比べると(なんと堕落した姿か、これがお坊さんか?)と非難されてしまうかもしれません。
 でも、それはそれでいいのです。私は、今の時代の中でこそできる「家庭人としてのお坊さんのあり方」があると思っているからです。
 わが子や孫を抱ける、まずはその許された幸せをしっかりと受け止め、その土台の上でさらに一歩、これからを生きる大事な孫や子世代を守るために、宗教者としての責任を果たしていく…そんな使命もあるのではないかと思うのです。

 腕の中の、小さな孫をのぞき込みながら、とりとめもない思いに浸っていたとき、作家・落合恵子さんの知人の言葉が浮かびました。ネイティブ・アメリカン(先住民族)である医師・ダイアンモントーヤさんは、彼女の祖父母の、そのまたおじいちゃんやおばあちゃんの代から伝えられている教えを落合さんに話してくれたそうです。
「私たちは、何か重大な選択をするときに、七世代先のことを考える。たとえそれがいま便利であろうと、たとえそれがいま利益をもたらそうと、それを手にしたことで七世代先の子どもが苦しむのであれば、絶対にそれを手にしてはいけないと教わった」
 くり返し読めば読むほど厳しい言葉です。それだけに、子孫に対する大きく深い愛情と、今を生きる大人の責任が感じられます。
 私はただの新米じいじです。でも、ときにはこんな戒めの言葉を拠り所とし、そしてもちろんお釈迦さまの教えの灯で、しっかりと足元を照らしながら、次に続く若い方たちとふれあっていきたいと思っています。

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明窓浄机

文・絵 長島宗深

孫を抱いたお坊さん