「富士ニュース」平成16年6月2日(火)掲載

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Meiso Jouki

 五月の後半の二週間、京都で法話の研修を受けてきました。今回は、禅道場の修行僧の生活規則そのままに行われましたので、食事の作法やお掃除なども、昔を思い出しながらの厳しい毎日となりました。

 そんな中、三日に一度、東司掃除の当番が回ってきました。東司というのは、お手洗いのことです。
 禅宗には「三黙堂」といって、会話や談笑が禁じられた三つのお堂があります。お風呂と、坐禅をする禅堂と、この東司です。大切な修行の場ですから、お掃除も特に念入りに行われます。
 この、禅の修行という意味合いでの東司掃除を最初に体験した時の驚きは、二十年近くたった今も忘れられません。
 当時、まだ何も知らなかった私は、(まあ適当にちょっとブラシでこすって、後は水をたくさん流しておけばいいや、毎日やってるからあんまり汚れてないし)と簡単に考えていたのですが…。

 私と東司掃除のペアを組んだのは、すでに長年、禅の修行を積まれた尼僧さんでした。
 尼僧さんは最初は黙って私の掃除ぶりを見ていましたが、ついに見かねて、「ちょっと貸してください」とブラシを奪い取るや、いきなり床に膝をついて、真剣に便器をこすり始めたのです。それも、中に顔を突っ込みそうな姿勢で…。
 私は、唖然とするばかりでした。
 それだけではありません、洗い終えると、今度は雑巾で便器をせっせと拭き始めるではありませんか。外だけでなく、中まで! さらに、それが終わると今度は床や壁板までも。
(えっ、そんな、きたない…なにもそこまでやらなくても…それも素手で)と、戸惑う私を尻目に、仕上げはスリッパ拭きです。きつく絞った雑巾で、スリッパを裏表まんべんなく、まるで仏具でも拭くように、ていねいに拭き上げたのでした。
 この一部始終を、私は、ただ突っ立って、ぼーっと見ているだけでした。とても同じように掃除する勇気が出なかったのです。
 掃除がすべてすんだとき、「この水だって植木にかけてあげれば喜ぶでしょ。木は水の選り好みはしませんからね」と言いながら、雑巾を洗ったバケツの水を、思い切りよく庭木の根本に撒いた尼僧さんの姿に、禅の東司掃除の奥深さを垣間見た私でした。

 今、各地で活動をしている「日本を美しくする会」という団体があります。公共施設などのトイレを掃除する中で、「心を磨こう」と呼びかけている会ですが、その活動趣旨の第一は「心を取り出して磨くわけにはいかないので、目に見えるものを磨く。特に人のいやがるトイレをきれいにすると、心も美しくなる。人は、いつも見ているものに心も似てくる」となっているそうです。すばらしい活動ですね。
 東司は心を磨く道場。
 掃除がすんだ後、日頃の感謝とお掃除のご報告を兼ねて東司の神さま「烏枢沙摩明王」の前に立てる一本の線香、一輪の花のすがすがしさも、真剣に掃除をした後は、また格別です。


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明窓浄机

東司(とうす)掃除