「富士ニュース」平成16年6月29日(火)掲載

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Meiso Jouki

  コメディアンであり俳優のいかりや長介さんが亡くなって、はや三か月が過ぎました。味のある役者としての活躍が楽しみだっただけに、残念なことでした。
 富士市には深い縁がありましたから、一昨日は市長感謝状がご遺族に手渡され、また吉原商店街では現在、追悼展が催されているそうです。

 私が長介さんのことを「おじちゃん」と呼び、長さんが私のことを、「千波留くん」(子どもの時の私の名前)と呼ぶ間柄だったのは、東京から疎開して富士に移り住んだ長介さんと父(先住職)とが、幼い頃からの親友だったからです。
 そんなご縁で、私にもいくつかの思い出があります。
 まだ長介さんが駆け出しだった頃でしょうか。といってもビートルズ日本公演の前座を務め、芸能人として売れ始めた頃でしたが、当時小学生だった私はサインをもらいに行ったことがありました。
 せっかくだからたくさん書いてもらおうと、小遣いでサインペンと新しいスケッチブックを一冊買い、意を決してお願いしたのです。
「あの…おじちゃん、これ一冊、サインして」
 縁側にごろんとひっくりかえってくつろいでいた長介さん曰く、
「えーっ?これ全部かよ。…しょうがねえなぁ」
 売れっ子の芸能人ぶって、わざとめんどくさそうにペンを走らす長介さん。その慣れた手つきと横顔を、ほのかなあこがれの気持ちで見上げた私でした。

 お正月には、よく寺に遊びにきてくれました。
 お屠蘇で上機嫌ながらも、礼儀正しく玄関で挨拶した後は、客間でひとくだり語っていくのが常だったのです。
 ある年、興が乗って少年時代の武勇伝に及んだことがありました。
「墓地のシイノキに登っていて二十メートル位落っこっちゃってなぁ、死ぬかと思ったよ」 
「川でよく魚捕りしたけどさぁ、そのやり方がふるっててな。自分はゴム長靴はいて、ゴム手袋して(絶縁して)、電線切るんだよ。魚を感電させるんだな。でもあるとき、川で洗濯していたおばあちゃんが、ギャーッとひっくり返っちゃってね」
「お盆が終わると、墓地の花立てを引っこ抜いてキリで穴をあけてね、水を入れてカーバイト落とすと、煙がもうもうと出てきて、バーンと音がする。それがおもしろくてなぁ、向こうとこっちで戦争ごっこだよ」
 どこまで本当なのか、今では考えられないような実話(?)の数々を聞きながら、いつしか引き込まれていった私でした。

 こんな長介さんとの長年のおつきあいで、私が今も持ち続けている印象はといえば、「誠実」ということです。
 無類の話好きなのに、いざ聞く立場になると真剣そのものだったのです。
 舞台で演ずる仏教的な役や台詞について電話で尋ねてきては、未熟な私の答えにも素直に耳を傾けてくれたことが何度かありました。
 その様子を思い起こすにつけ、ご長男が葬儀の挨拶の折に、父の口癖としてしめくくった『三つの教え』が重なります。
「ありがとうの言える人間になれ。
 ごめんなさいの言える人間になれ。
 うそをつく人間になるな」
 振り返れば、華やかな芸能人生活の中にあって、まさしくこの言葉通りの謙虚で誠実な生涯を送られたのだと、改めて、この言葉の重みをかみしめてみるのです。


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明窓浄机

いかりやさん