「富士ニュース」平成16年10月19日(火)掲載

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Meiso Jouki

 「お父さんはケチだねえ。歯磨き粉のチューブ、あんなになるまで使うんだから」 
 笑いながらあきれている娘に、
「それは言葉が違うだろ。物を大切にしてるね、だろ?」
と苦笑いしたある朝の私です。
 (ケチかあ…)
 確かにそうかもしれません。もう中身がほとんど残っていないようなチューブを、隅っこから何度も何度も押し出しては、まっ平らになるまでしぶとく使うのですから、こう言われてもしかたがありません。

 こんな私ですが、禅の修行時代には、ちょっとびっくりしたことがありました。
 日常の生活の中で、何度か「茶礼」という時間があります。いわば休憩のティータイムです。体を使った厳しい作務(作業)の合い間に、やかん一杯の番茶と、ありあわせのお菓子で休憩を取るのです。厳しい修行の合い間の、ちょっと嬉しいひとときでもあります。

 この茶礼の飲み物として、時にインスタントコーヒーがふるまわれることがあるのですが、入門して最初の「コーヒー茶礼」の時、こんなことがありました。
 以前『イチゴのショートケーキ』でも紹介しましたが、入門当時は、すべての作法を先輩修行僧のするがままに真似して行うのが決まりです。
 どうやるのだろうと、注意深く先輩の手元を見ていると、コーヒーを注ぎ終わった先輩は、小さなフレッシュ・ミルクのふたを開けると、上手に容器の端をつまんで、コーヒーの中に浸してしまったのです。
 そして、容器の中にミルクが残らないように、上手にコーヒーに溶かし込んでいったのです。
(ここまでやるのか…!)
とあきれつつも、右へ習へで従った私でした。

 でも、驚いたのはそれだけではありません。
 その日、すっかり空になったコーヒーのビンを、新入りの私が気を利かせて片付けようとした時です。「待て」と私を制した先輩修行僧は、私からビンを奪い取ると、何を思ったかおもむろに空きビンにお湯をそそいだのです。
 あっけに取られて見守る私たちの視線も気にせず、先輩は、お湯でビンの中を洗うが如くに上手に揺すると、最後は悠然と飲み干してしまいました。
 (うわっ)と、顔を見合わせた私たちでしたが、後で考えてみれば、これはちっとも無理なことではありませんでした。なぜなら、禅の食事には、食後にお湯で自分の食器を洗った後、全部飲んでしまうという「洗鉢」の作法があるからです。
 長い修行で、この作法が身に染みている先輩にとって、ビンを洗わないことのほうが、はるかに不自然だったのでしょう。

 コーヒーにせよ、ミルクにせよ、物にはすべてに「使命」があります。使われるべき目的があります。その物の「命」をできる限り使いきってあげる。
 物の豊富な時代だからこそ見直したい、思いやりの心です。

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