「富士ニュース」平成16年12月14日(火)掲載

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Meiso Jouki

 「久しぶりに山のいい空気、いっぱい吸ってきたら?」
 忙しくなるとついパソコンに向かいきりになる私を案じた家人にそう促されて、初冬の富士見峠(静岡市北部)を訪ねてみました。

 標高千二百メートル近い稜線にある明るい広葉樹の林。落ち葉や小枝が幾重にも敷きつめられて、ふわふわとやわらかい林を踏み進めば、サクッサクッ、パチッパチッと、心地よい音だけが静かな林に響きます。
 ふと立ち止まり、私は何気なく上を見上げてみました。
 ミズナラ、ヒメシャラ、シラカバ…すっかり葉を落とした木々の梢が、白く光っています。はっとするほど繊細で美しい枝先です。
 その梢と、快晴の碧空の間を、すじ雲がゆったりと流れていきました。
 一体、いつ以来のことでしょう。
 ただ樹を見るためだけに立ち止まり、こうして空を見上げたのは。
 空を、雲を、ただこうして見上げて佇んだのは。
 ツツピーツツピーというシジュウカラの澄んだ鳴き声。カカッカカッと気ぜわしく幹をつつくコゲラの嘴の音。
(なんだか忘れていたなぁ、このいい感じ…)

「頭をからっぽにする
 胃をからっぽにする
 心をからっぽにする
 そうすると入ってくる すべてのものが新鮮で 生き生きしてくる」 
 仏教詩人・坂村真民さんの詩がおぼろげに浮かびます。
 かすかにモミの木の香を含んだ風の冷たささえもが心地よく、ずいぶん長いこと忘れていた大切な感覚を呼び覚まされた私は、空を見上げて何度も大きく深呼吸をしたのでした。

 その夜。
 峠の家に住む友人二人と一献傾けるうちに興が乗った私たちは、外で続きをやろうということになりました。
 防寒具を入念に着込み、少し離れたところにしつらえた特設の囲炉裏端でヒノキの枯れ枝を焚けば、パチパチという力強い音の中、懐かしい焚き火の匂いを伴って、闇に暖かな灯がともります。
 存分に旧交を温め、身も心もすっかり満ち足りた頃、何を思ったか、突然友人が叫んだのです。
「さあ、今からみんなでバンザイしますよ!」 
「え? ここで?」
「ま、いいからいいから。言う通りにして。はい、ここに寝転がって」
「?」
 酔いに任せ、促されるがままに冷たい大地の上に仰向けになり、両腕を思い切り伸ばすと…。
 なんとそこは、何もさえぎるものがない満天の星空。どれほどの星が、私たちの頭上に輝いてくれていたことでしょう。
 その息を呑むほどの星空を、寝転んでバンザイしながら黙って見上げている三人の男たちの不思議な姿がありました。
 十二月初旬の深夜一時。氷点下の稜線近くでの感動です。

 昼間の梢越しの青空といい、夜の星空といい…。
 心をからっぽにして、空を思いっきり見上げることの心地よさを、しみじみと思い出した、初冬の一日でした。

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