「富士ニュース」平成17年2月15日(火)掲載

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Meiso Jouki

 「えっ、お父さん。まさか、それ着て行くの?」
「ん、どうして?」
「だってそれ、お葬式の格好じゃん」
「いいのいいの。和尚は、どんな時もこれが制服なの。悲しい時も、うれしい時も…いつだってこれが正式なスタイル!」

 知人の結婚式の朝。びしっと法衣をまとって出かけようとする私と、子どもとの会話です。無理もありません。この日の結婚式はキリスト教式だったのですから。
 映画から飛び出てきたようなハンサムな外国人牧師さまに迎えられてチャペルに入ると、そこは穏やかな冬陽を存分にたたえた、色鮮やかなステンドグラスの世界。
 (お寺の本堂とは違って、いいなぁカラフルで)と、後ろの席からうっとりと式の一部始終を見守った私ですが、その時ふっと、初めて教会での結婚式に参列した時のことを思い出しました。

 当時、まだ雑誌編集者だった私は、ネクタイにスーツ姿でした。その上長髪でしたから、傍目には「お坊さん」には見えなかったはずです。
 そこで初めて耳にした讃美歌や聖書の言葉、牧師さまのおごそかなお説教。それはどれも新鮮で、心洗われる体験でした。でも、そんな中でやはり躊躇したのは、「アーメン」の唱和でした。
 本来、この言葉や讃美歌の斉唱は信仰告白であり、「自分も同じです」「その通りです」「私たちもそう信じています」という同意の意思表示だと聞いていたからです。もしこの一言を唱えると、クリスチャンにならなければならないような気がしたのです。
 でもそんな懸念はすぐ消え去りました。「みなさんはこの言葉に抵抗があるかもしれませんが、違う信仰の方々も集まる結婚式では、二人を祝福し、二人の信仰を認めるという意味です。広い心で唱えてください」との説明があったからです。

 以来、何度か教会での結婚式を経験した私ですが、おかげで讃美歌の三一二番はすっかり耳になじみ、♪いつくしみ深き友なるイエスは、罪咎憂いをとり去りたもう、というフレーズが大好きになりました。生老病死の「四苦」から私たちを救おうと、生涯尽力されたお釈迦さまの姿と重なるからです。
 仏教も、キリスト教も、願いは同じなのですね。

 ある時、友人の牧師さんはこんな助言もしてくれました。
「もしお坊さんが、お袈裟で参列してくれたら、私はうれしいです。身分を明かさないように変にスーツを着て隠れなくてもいいと思う。悪いことをしているのではないのだから、誇りを持って参列していただきたいですね。キリスト教は、特に他宗教との対話を大切にしてきました。大歓迎ですよ」

 さすがに袈裟はつけませんが、この言葉に勇気づけられ、私は今では胸を張って、法衣で参列するようになりました。そして、キリスト教式を選んだお二人に幸多かれと、大きな声で讃美歌を唱え、何度も「アーメン」と唱和し、心からの祝福を捧げるのです。禅僧にはちょっとミスマッチ?な満面の笑みも添えて。
 

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明窓浄机

アーメン