「富士ニュース」平成16年1月14日(火)掲載

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Meiso Jouki

美しい日本語を耳にして、はっと心うたれました。
 みそなわす、という言葉です。

「ご覧になる」の意味をもつこの古語に私が出会ったのは、奈良に程近い小さなお堂でのことでした。

 千手観音さまは、たくさんの救いの手を持つ仏さまですが、ふつうは四十二本の手をお持ちです。ところが、日本には数体、本当に千本の手を具えられた「千手観音さま」がいらっしゃるのです。

通された観音堂の中で間近に仰ぎ見たその観音さまは、羽を大きく広げた蝶のように千本の平らな手を扇状に背負っておいででした。 寺庭さん(お寺の奥さん)が、ていねいに案内をしてくださいます。

「この千手観音さまは、右に五百のおててと、左に五百のおててをお持ちです。そして、その掌のひとつひとつに、おめめをお持ちです。合わせて、千のおててと千のおめめをお持ち遊ばせて、私たちの誰一人をも見逃すことのないようにしてくださっておいでなのです」

 手にすり込んだ白檀の塗香に浄められた五感に、やさしい言葉がすっと染み入ってきます。幼子に語りかけるような、ゆったりと詠うような声です。

「昔、この観音さまは、藁葺きの本堂にお祀りしていました。夜、本堂の屋根から射し込む月明かりで拝む観音さまが一番おやさしいと、この寺の法要は、ぜんぶ夜に営まれてまいったのです。
 いまから扉を閉めて雰囲気だけ少し味わっていただきます」

暗くなった堂内で、しばらく静坐して待つ…。

 やがて、やわらかな灯りに浮かび上がった観音さまを見上げて、私はすっかり言葉を失っていました。
 その観音さまは、さっきまでの怖いほどの厳しい面持ちを消し、同じ仏さまとは思えないような慈愛を、そのまなざしにたたえて立っておられたのです。

 長い沈黙。

 感動に浸るに十分すぎるほどの沈黙の時間が、私に許されました。
 そうしてただ、じっと見上げているうちに、なぜか、涙があふれてきたのです。
 ありがたくて、ただありがたくて、涙があふれてきたのです。

無言で何度も何度もうなずく私に、寺庭さんは、ゆっくりと、かみしめるように、こうつぶやきました。
「慈眼をもって私たちを、みそなわす観音さまです。
 朝、扉を開けるとき、もしかしたら観音さまは、イラクの戦争のことを思われて、涙を流されているのではないか。
 檀家さんのご病気のことを心配されて、涙を流されているのではないかと思うのです」
と。

信仰の大きな安らぎに包まれながら、私は初めて耳にした「みそなわす」という言葉の美しい響きの中に、すいこまれていました。
 観音さまの慈愛は、こんな美しい言葉をも、人からこぼれさせるのでしょう。


 二月七日は、妙善寺の千手観音さまのお祭です。年に二回だけ、私たちの前にそのお姿を現してくださる、うれしい日です。 手の数は違えど、同じ「慈眼」に満ちたこの千手観音さまに仕えることができる自分を、私は本当に幸せに思います。









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明窓浄机

みそなわす