「富士ニュース」平成17年5月10日(火)掲載

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Meiso Jouki

 道場の玄関で座り込み、どうにかその晩は宿泊を許されて、緊張で眠れぬ夜を過ごした翌朝。
「再泊は許しませんから、どうぞ早々にお引取りいただきますようお願いいたします」
 昨日の雲水が、ていねいな口調ながら、すごみのある声で下山を促します。この時点で私はまだ、旅の途中の「お客さま」なのです。

 草鞋をつけ、旅装束を整えると、いったん玄関を出て山門を抜け、そこで再びUターン。
 庭詰二日目。今日も参道を登って、昨日と同じように玄関で座り込むのです。

 一体いつになったら入門を許されるのか? 誰も教えてはくれません。ただ、じっと座り込む。
 この苦行の間のわずかな息抜きとなったのは、お手洗いと、典座(食堂)の土間で草鞋のままいただく食事の時間でした。

 昨日の荒天がうそのように一転したこの日。私は、石になることにしました。寒いから小さく小さく縮こまって、ひたすら石になることに決めました。時折、花びら混じりの風が玄関を吹き抜けていきました。

 こうして二日目が終わり、迎えた三日目の朝。出発の準備をすませても、追い出しがありません。
 いよいよ次の修行、「旦過詰」が始まったのです。今度は、初日から私が泊めていただいた小部屋での座り込みです。

 老師の書(墨蹟)が掛けられた床の間の前には、坐禅のための座布団とたっぷりの線香が用意してあります。ここで一日中坐禅をせよ、というのです。
 坐禅修行をするために訪れたのですから、坐禅なら苦にはなるまい、と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。まだ体ができていない入門者にとって、延々と続く坐禅は、どうもがいても逃れることのできない脚の痛みとの戦いなのです。
 障子や襖で仕切られた部屋は、さながら座敷牢。
 誰かがそばで見張っているわけではありませんから、ちょっとひと休み、と休憩を入れてもよさそうですが、それはできません。どういうわけか、障子も襖も、少しだけ開いているのです。いつ、どこで、修行僧に見られているかわかりません。絶えず人の気配を感じてしまうのです。
 もし、気を抜いた姿を見られて「何のためにここに来たのか!」と罵声を浴びせられるまでもなく、この程度の苦痛に耐えられないで入門しようとする自分の決心の甘さに、揺さぶりがかけられるのです。
 隙間から見ているのは、私自身なのかもしれません。

 こうして過ごした五日目の朝。ついに先輩修行僧が居並ぶ禅堂に通され、「新到、参堂!」と大声で宣言され、うやうやしく低頭を受ける中、とうとう修行僧の仲間入りが許されるのでした。
「禅道場入門」と題して、三回シリーズでお伝えした入門作法。いずれも、どれだけ本気で入門を請うているかが試される関門でした。

 中国で禅を広めた達摩大師のもとに入門を願った慧可禅師が、雪の中で何時間も立ち尽くし、最後にはその覚悟を示すために自分のひじを刀で断ち切ったという逸話。禅道場の門を叩く者はみな、この壮絶な逸話を思い起こしながら、静かなる苦行を乗り越えていくのです。  (つづく)

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明窓浄机

旦過詰(たんがづめ) 禅道場入門〜下〜

文・絵 長島宗深