「富士ニュース」平成17年9月27日(火)掲載

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Meiso Jouki

 禅の正式な食事作法に、「生飯」という決まりがあります。
 それは、食前に、ご飯なら七粒くらい、うどんなら数センチを、手(または箸)で取り、掌の上で二〜三回まわした後で、飯台(食卓) の隅に置くというものです。
『大般涅槃経』によると、お釈迦さまが荒野を歩いていたとき、衰弱して死にそうな鬼に出会ったのだそうです。聞けばこの鬼は、仏教で一番大切にしている「不殺生戒」(生き物を殺してはならないという決まり)を自分も守ろうと決意したため、飢死寸前になってしまったのだと。
 そこでお釈迦さまは、この鬼に約束をしたのです。「これから私は、弟子たちに命じて、仏教のあるところでは必ず食事のたびごとに生飯を施させよう」と。

 以来、ずいぶん長い年月が経っていますが、私たち僧侶がお釈迦さまの弟子であることに変わりはありません。ですから、正式な食事の時には必ず生飯を取り、その後で「鬼たちよ、さあ召し上がれ」という意味のお経を唱え、お釈迦さまがされた約束を果たすのです。(この生飯が、供養されない亡者や、あまねく一切の鬼神にも行き渡り、餓えの苦しみから救われますように)と心に念じつつ。
 さらにまた、まず真っ先に自分以外の者のために一箸取り分けることによって、ガツガツしがちな自分自身のむさぼりの心をも戒めようというのです。
 さて、この生飯ですが、せっかくこうして施しても、目の前に鬼が出てきて実際に食べるわけではありませんね。
 では、食後にはどうするのでしょう?

 食事が終わると当番は、全員分の生飯を「生飯掻」という道具を使ってていねいに集めます。そして、外に運んで、野鳥や魚に施すのです。今度は自然界の生き物へのお供物というわけです。
 施す先はさまざまです。
 あるお寺では、立派な台所の瓦屋根の上に、たくさんのご飯粒が散らばっていました。豆まきよろしく屋根に向かって勢いよく放り上げて鳥に施し、最後の残りは一粒残さず畑の虫たちに分けていたのです。

 私の修行道場には、大きな池がありましたので、生飯撒きは通常、そこで行われていました。
 縁側から池に向かって、おはじきのように指でぴっぴっと生飯を手際よく弾くのです。朝の水っぽいお粥でも、こうすると魚が住む池の中ほどまでみごとに飛んでいきました。
 ここだけの話ですが、実は、私はこの役目が好きでした。(ちょっと不謹慎かな)と思いつつも、うまく弾けたときの心地よさは格別だったからです。厳しい修行中の、ささやかな楽しみといったらいいでしょうか。
 生飯という言葉の由来は一説には「衆生の飯米」だといわれます。衆生というのは、天から地獄まで、ありとあらゆる所に住む、すべての生き物です。
 生きとし生けるものすべてへの「慈しみ」の心のあらわれ。仏教の基本精神は、ここにも伺うことができるのです。


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明窓浄机

生 飯  (さ ば)

文・絵 長島宗深