「富士ニュース」平成18年1月17日(火)掲載

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Meiso Jouki

 不意に人から拝まれて、どきっとすることがあります。
 気軽に交わしたはずの挨拶で、相手の方が目の前で合掌して深々と頭を下げてくださっているような時です。
 しまった!と、遅ればせながらあわてて私も合掌して応えるのですが、(私ごときのために手を合わせてくださるとは…)と、つくづくもったいない気持ちになります。

 みなさんはいかがでしょう? もし和尚さんにいきなり拝まれたら、一体どんな気持ちがしますか?
 常不軽菩薩、という仏さまのことが『法華経』に説かれています。
 この菩薩さまは、お経も読まず坐禅もせず、毎日人の集まる所に出かけて行っては、会う人の誰をも拝み続けるという不思議な修行をされた方です。
 大人でも子どもでも、お金持ちでも貧乏でも、とにかく誰でもいいから拝む…。
 その時に唱える言葉が、
「私は深くあなた方を敬い、決して軽んじません。なぜならあなたは仏になれる人だからです」
というものでした。
 ところが、通りがかりにいきなり拝まれたほうはたまりません。(私が仏になれるだって? こいつは一体何を言ってるんだ!)と、気味悪く思い、中には暴言を浴びせるだけでなく、石を投げたり、棒や杖で叩いたりしたそうです。
 でも、菩薩は傷だらけになりながらも抵抗は一切せずに、辛抱強くその人たちに手を合わせて「私はあなた方を軽んじません…」と、ひたすら拝み続けられ、やがて長い時間をかけて、人々の信仰を集めるようになっていくのです。

 理屈ではない、ただ一心に拝み続けることによって、相手は(これだけ拝まれるんだったら、もしかしたら本当に私の中にも尊い何かが潜んでいるのかもしれない)と自然に目覚めていったのですね。
 私はこのお話が大好きです。
 おそらくみなさんも、まさか自分が仏さま(ブッダ)になれるとは思ってはいないでしょう。
 もしかしたら「私なんか全然ダメですよ、欲深いし、怒りっぽいし、愚痴ばかり言ってるし怠け者だし…」と、いくつもの理由を上げて、否定されることでしょう。
 でも、「衆生本来仏なり」「この身すなわち仏なり」と、日本を代表する江戸時代の高僧・白隠禅師もはっきり説かれているとおり、仏教では確かに誰もが仏さまになれる(目覚める)ことができるのです。お釈迦さまと全く同じ悟りを開くことができる可能性を持っているのです。
 それも、たとえ、今何をしている人でも、また、過去にどんなことをしてしまった人でも、教えを聞こうとする心がある限り、仏さまになる資格だけは決して失わない…ここに仏教の大きな特徴があり、また大きな救いがあるといえるのです。
 (あなたは大切な人なんですよ、気づいてください!)
 そんな思いを込めて、私も多くの方の中に潜む仏さまを拝んでいきたいと思います。

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明窓浄机

拝   む

文・絵 長島宗深