「富士ニュース」平成18年3月14日(火)掲載

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Meiso Jouki

 あるお寺で、法話の出番待ちをしていた時のことです。
 お話を始める前、私はいつも坐禅をして心を調えながら待つのですが、ふと気づいて袂から数珠を取り出した時、何かがバラバラと畳の上に転がり出ました。
(ん? 何だろう)
 拾い上げるとそれは何と、数珠の玉でした。
 はっとして手元の数珠を見ると、紐の端がぶらぶらしています。
 袂に手を入れると、外れた玉がいくつも残っていました。
 数珠が切れたのです。
(ああ、切れたんだ…)
 この時私は、やけに自分の心が落ち着いているのに小さな驚きを覚えました。ふだんだったら大騒ぎなのです。
(困った! 代わりの数珠は持っていない…どうしよう)とか、(なんて縁起が悪いんだ。悪いことの前ぶれかな)とか、(いやいや、数珠が私の災難の身代わりになってくれたに違いない)とか、あれこれ理由をつけて自分を納得させようとするのですが、この日は少し違いました。坐禅の最中だったからかもしれません。
 私はあちこちに散らばった虎目の数珠玉を一つ一つ拾い上げながら、仏教の最も基本となる教えの一つ「諸行無常」の語を思い浮かべていました。
(すべてのものは移り行く、変わり行くのだから、この紐が切れるのも自然なことだな)と。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
『平家物語』の冒頭の一節として広く知られたこの言葉ですが、「盛者必衰の理」「おごれる人も久しからず」「たけき者もついには滅びぬ」と、滅びゆく姿のはかなさの代名詞のように使われています。
 また、日本人の美意識の代表とされるものに、桜の花や紅葉、雪などがありますが、これらはすべて、はかないから美しいのであり、そこにはこの仏教の無常観が流れているといわれます。
 でもこの「無常」。往々にして私たちは一面だけでとらえがちなのです。それは、雪が融けたり、紅葉や桜が散ったりといった、滅びの場面でだけ、無常観をいだきやすいということです。でも実は、これだけではないのです。
 寒々とした木々の早春の枝先が、小さな蕾を結ぶのも無常。
 蕾が少しずつふくらんでいくのも無常。
 そして誇らしげに花開くのも無常。
 もっと咲いていてほしいのに、やがて散るのも無常。
 人間で言えば年老いるだけが無常ではなく、このまま、かわいいままでいてほしいと願うようなあどけない幼子が、成長して少年になり、やがて青年になっていく。これも無常。
 すべてのものは変化してやまないという真実が、「無常の理」なのです。
 そして、この諸行無常の世にありながら「いつまでも変わりたくない」と願う私たちの心が「苦しみ」を生む一つの大きな原因だと、お釈迦さまは説かれているのです。
 春。
 芽吹きを始めた草花や木々が、諸行無常の教えを体じゅうで私たちに示してくれる、好時節です。

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明窓浄机

諸行無常

文・絵 長島宗深