「富士ニュース」平成18年5月 9日(火)掲載

88



Meiso Jouki

 三月から四月にかけて、岐阜・長野・新潟の約三十か寺に巡教に出向きました。本山から任命されて、末寺で開かれる法話会でお話をさせていただくのです。
 聞いてくださる人数はさまざまで、数百人を超すこともあれば、わずか数人の場合もあります。時には、檀家さんはゼロで、近所の他宗派の方が集まってくださることもありました。

 同じような話をするのですが、反応はさまざまです。聞き上手でよく笑ってくださるみなさんあり、一方ほとんど表情を変えずに一時間じっと坐っていらっしゃる方も…。
 また、何度も何度もうなずきながら真剣に聞いてくださるので、できるだけその方の目を見て話すようにしたら、実はまったく聞こえていらっしゃらないということが、後でわかったり…。

 法話の後に茶話会が開かれていると、襖越しに感想が聞こえてくる場合があります。
「聞いてるときは、話はよーくわかる。そうせにゃならんとそこでは思うが、ハハ、立つともう忘れるなぁ、ハハハ」
「うん。今日の話は、わかりやすくてよかったな。世の中、とことん悪い人間はいないっていうことだなぁ」
「まったくもう! いつもは気持ちよくうたた寝させてもらうのに(笑)、今日は泣かされて眠れなかったよ」 
 中にはわざわざ直接感想を伝えてくださる方もいらっしゃいます。
 一人のご老人が足を引きずりながら近づいて、こうおっしゃいました。
「わしゃ、うれしい。坐禅というものに長いこと惹かれているんだが、何しろこの足じゃ、と、到底あきらめていた。でも、あんたは今日、こんなわしでもできる坐禅を教えてくれた。ありがとう、本当にありがとう。今日はお寺に来てよかった」
 お話させていただいてよかった、喜んでいただけてよかったと、布教師冥利に尽きる瞬間です。

「薫習」という仏教語があります。
 お香が法衣にその香りを移すように、経験した事柄が心や体に沁みこんでいくことです。
 お寺に足を運んで、仏教からのさまざまなメッセージの中に身を置いていると、意識しないでも仏教の教えが薫習していくのです。たとえ居眠りをしていても、毛穴から法話が沁みこんでくるとも言われます。お寺に足を運ぶ、そのことがもう十分に尊いのです。

「花も美しい。月も美しい。それに気づく心が美しい…心が開いているときだけ、この世界は美しい」(円覚寺派管長・足立大進老師)。
 私たちの周りには、自然しかり、人の心しかり、美しいものにあふれています。ありがたいことに満ちあふれています。でも、限りない不平不満の心でとらえれば、どんなに美しいものも、美しくは映りません。ありがたくは思えません。

 妙善寺では、今年から住職の明窓浄机「法話会」を年二回催すことにしました。身の周りにあるのに見過ごしがちな美しいものに気付きながら、幸せに生きる仏教の教えを、できるだけわかりやすくお伝えしていこうと思います。どなたでも、どうぞご自由にご参加ください。
☆五月十四日(日)
 午前十時〜十一時
参加費無料・申込不要
 問合 三四・〇七二九 

おはなし 目次に戻る
明窓浄机

薫    習

文・絵 長島宗深