「富士ニュース」平成18年6月 6日(火)掲載

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Meiso Jouki

 新茶のおいしい季節になりました。
 臨済禅を日本に紹介した栄西禅師が、「茶は養生の仙薬なり、延齢(長生)の妙術なり」とその薬効を紹介し、またお茶が睡魔を払って修行を助けることからも、仏教の世界とは深い縁を持つこととなりました。

 お坊さんは、本当によくお茶を飲みます。
「茶礼」といって、何かにつけて茶湯の接待をする習慣があるからです。
 修行道場では、朝起きてから床に就くまで、一日に何度もお茶がふるまわれるのが日常です。
 お寺で行事がある時などは大変です。お坊さんが席に着くたびに抹茶・煎茶が供給される「到着茶礼」。式の直前打合せは「役寮茶礼」。儀式の中で全員が同じお茶を一気に飲み干す「総茶礼」。
 ほかにも、いざ出発前の一服「出立茶礼」や、就寝前の「開枕(解定)茶礼」など、とにかくお茶は手放せないのです。

 修行時代、私がいちばん好きだったのは、作務の間の茶礼でした。
「サレイ!」
 朝の境内にひときわ大きな声が響き渡ると、作務に専心していた修行僧たちはその手を休め、いっせいに声の主のもとに駆け寄ります。
 休憩時間のティータイムです。道場は朝が早く、また作務も重労働なので、まずは午前中に一度、ひと息いれるのです。
 このとき用意されるのは、あちこちへこんだ大きなやかん一杯の番茶と、頂き物のお菓子でした。
 頭に巻いたタオルをはずし、先輩から順に、熱いお茶とお菓子を選んでいきます。(好きなお菓子が私の番まで残っていますように…)と、心ひそかに念じながら自分の番を待ちました。
 この茶礼で使われる茶葉は、寺の茶畑で修行僧が見様見真似で摘んで作った、ガサガサの番茶です。お世辞にも美味とはいえないはずなのに、それでもこの上なくおいしく感じられたのは、厳しい修行の中にあって、心をゆるめることが許される、ささやかなくつろぎのひとときだったからでしょう。

 そういえば、中学生の時、私が最初に茶礼を経験した時もそうでした。
 師父が始めた早朝坐禅会。夜明け前でしたから、眠いし、寒いし、足は痛いしと不平不満の募る中、それでも何度も参加しようと思ったのは、坐禅後に「梅湯茶礼」があったからでした。
 お湯飲みに梅干ひとつと砂糖を入れて熱湯を注いだだけのものでしたが、坐禅をしてもまだ目覚めない体と心に、きゅっと気合いが入り、味わったことのない満足感でした。(おいしいなぁ)と、しみじみ思いました。
 つらい坐禅の時間をやりとげた後の満足感と、夜明けの澄んだ空気のすがすがしさが、子ども心にも心地よかったのでしょう。この一杯の梅湯のために、坐禅をしてもいいと思ったのです。

 作務の後の番茶にせよ、坐禅の後の梅湯にせよ、縁あってそこに集った仲間が、ひとつことをなしとげ、ひとつの釜の湯で沸かしたお湯で、同じ茶湯をいただく。
 そこに一期一会の出会いを喜び、和合を味わうのが、茶礼の心なのです。

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明窓浄机

茶    礼

文・絵 長島宗深