「富士ニュース」平成18年9月 26日(火)掲載

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Meiso Jouki

  みなさんは「坐禅」というと、どんな印象を持たれますか?
「脚が痛そう」「棒を持った人が怖い」「精神統一」「落ち着きがでる」
 どれもその通りですが、修行僧にとってはやはり、脚の痛みとの戦いです。
 坐禅中は、何があっても動いてはいけません。暑くても汗はぬぐえず、蚊が飛んできても追い払えません。痒くてもがまん。ましてや痛いからといって脚を組み替えるなどもってのほかです。もし少しでも動くところを見つかれば警策(けいさく)という棒で容赦なく打たれます。
 みなさんは「坐禅」というと、どんな印象を持たれますか?
「脚が痛そう」「棒を持った人が怖い」「精神統一」「落ち着きがでる」
 どれもその通りですが、修行僧にとってはやはり、脚の痛みとの戦いです。
 坐禅中は、何があっても動いてはいけません。暑くても汗はぬぐえず、蚊が飛んできても追い払えません。痒くてもがまん。ましてや痛いからといって脚を組み替えるなどもってのほかです。もし少しでも動くところを見つかれば警策(けいさく)という棒で容赦なく打たれます。

 でも、我慢にも限界があります。
 そこで、禅の道場に入門した修行初心者は、悪あがきを思いつくのです。巡回する先輩が背を向けたところを見計らって、静かに、そっと少しだけ脚をゆるめるのです。(どうせ衣の中だ。わかりっこないや)と。
 でも、深く組んだ脚を一旦ゆるめ始めたら最後。そこにはさらなる地獄が待っています。
 確かに一時は楽になるのですが、それもつかの間、すぐさま別の所を痛みが襲います。また少し脚をゆるめると…もっと痛くなり…。
 そんなことを繰り返して悶々としていた頃、先輩からこう尋ねられたことがあります。
「お前はなぜあんなにモゾモゾするんだ」
「はい…その…脚が痛いからです」
 そんなことは百も承知だ、と言わんばかりに先輩はこう言い放ちました。
「お前は、痛みから逃げようとするから余計に痛いんだ!」
「…?」
 意を汲めなかった私は、恐る恐る聞き返しました。
「あの…先輩は痛くないんですか?」
「ふざけるな! わしも生身。長く坐れば痛い。だが逃げん。逃げてどうなる。痛みとひとつになれ。痛みになりきれ!」
 そのとき私は、(ああ、先輩も痛いんだ)と、親しみを感じる一方で、その強い語気に気圧(けお)され、意味はよく納得できないながらも、先輩の真剣なアドバイスを無にしたくないと考えて、こんな工夫をしてみました。

 坐禅の時は、特に意識して、ゆったり長く息を吐くように指導されます。普通は数(す)息観(そくかん)といって「ひとーつ。ふたーつ…」と、息を吐きながら心の中で数をかぞえるのですが、数の代わりに「痛いーっ」「痛いーーっ」と、ただひたすら吐いてみたのです。
 脚の痛さから逃げられない、この状況の中の自分をまず認め、今自分がなすべき呼吸だけに集中する。痛みから逃げず、むしろ痛みの中に自ら飛び込んでいく。どっぷり痛みにひたる。
(痛いのは仕様がない。でもいくら痛くても脚が折れるわけじゃない。ただ痛いだけなんだから、放っておこう。むしろそのことに振り回されないようにしよう)と。
 すると不思議です。脚が痛いのは相変わらずなのですが、心ははるかに楽になっていったのです。
「ひとつになる」「なりきる」「ぴたっと一枚になる」という『一如(いちにょ)』の教えは、生活の中のどんな場面でも活かせる、禅の大切なキーワードでもあるのです。
 

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明窓浄机

一    如(いちにょ)

文・絵 長島宗深