「富士ニュース」平成18年10月 24日(火)掲載

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Meiso Jouki

  時おり出かけるウォーキングで、がっかりすることがあります。
「あ、またゴミが捨ててある…。古着と、うわっ、紙おむつだよ」
「これはひどい! 古いテレビやパソコンだ」
「タバコの吸殻がまとめて捨ててあるよ。車から撒いたんだね。ここに花が咲いてるのに。いったいどういう神経してるのかしら!」
 平気で捨てていく人は、自分の家の中さえ片づけばいいのでしょうか? 自分の車の中さえきれいになれば、気持ちがいいのでしょうか。
「自分さえよければ」「自分の周りさえよければ」という、そのさもしい了見には、ほとほとあきれるしかなく、悲しくさえ思えます。

 あの有名な良寛(りょうかん)さんにこんな逸話があります。
 良寛さんは、自分の持ち物だけでなく、人から借りた本にも「おらがの」(自分の物)と書く癖があったというのです。
 ちょっと意外に感じられますね。(良寛さんがそんな図々しい、身勝手なことを?)と。
 生涯厳しい禅修行を続けながらも、周りの人々や自然の生き物を大きな大きなやさしさで包んだ良寛さんですから、そんな単純な話のはずはありません。
 無意識に書いたであろう言葉「おらがの」。私はここに、良寛さんの限りないやさしさを感じるのです。

 摩訶、という言葉があります。マカフシギ(摩訶不思議)と言ったり、『摩訶(まか)般若(はんにゃ)波羅蜜多(はらみた)心(しん)経』(ぎょう)とお経で唱えたりしますが、「限りなく大きい・たくさん・すぐれている」という意味を合わせ持った仏教語です。
 その大きさは、例えばこんなふうに説明できましょうか。
 黒板にチョークで小さな〇をひとつ描きます。この○を少しずつ大きくしていくのです。最初は簡単ですね。その外側に少し大きな○を描けばいい。どんどん○を大きくしていくと、どれだけでも大きな○は描けます。
 でも、黒板をはみ出し、部屋をはみ出し、たとえ空一杯に大きな○を描いたとしても、描いた線の外側にはまだ別の世界がある。これではまだ、果てしなく大きい○にはなりません。
 ではどうしたら? 
 簡単です。線を消してしまえばいいのです。そうすれば、中と外の境界がすっかり消えて、大きな大きなひとつの○(世界)になるのです。これが「摩訶」の○です。
 私たちはふだん、「自分と他人」「自分の物と他人の物」というふうに、さまざまな境界線を引いて暮らしています。そして時にはその境界にこだわりすぎて、わがままになってしまうことがあります。
 もし自分と同じように他人を愛しむことができたら…。自分の物と他人の物を隔てずに、大切にできたら…。

 道端の草むらも「おらがの」。吸殻を浴びせかけられた花も土も「おらがの」、となれば、そうそう無神経なことはできないはずです。
 自分と他人との境界をすっかり消した良寛さんの「摩訶」の心。私たちも少しだけおすそわけしていただきませんか?

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明窓浄机

おらがの

文・絵 長島宗深