「富士ニュース」平成20年2月19日(火)掲載

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Meiso Jouki

  私のお寺には、用途に応じた各種の「鳴らし物」があります。

 朝七時の「時の鐘」は、鐘楼の梵鐘。それをぐっと小さくした本堂入口の殿鐘は、行事の始まりを告げます。
 玄関には、来訪を知らせる木板。中に入れば食事を知らせる雲板や、柄がついた携帯用「引磬」、握って振る「振鈴」、拍子木のような「柝」…まだまだあります。

 禅宗では、仏事を行うときにいちいち言葉を掛けあわなくとも音ですべて人が動くように、細かく鳴らし物の決まりが定められているのです。それだけに、この鳴らし物の音に対しては、敏感になります。
 昨年の大晦日、妙善寺では例年のように、除夜の鐘で新年迎えました。寒い中、大勢の参拝者が行列をなし、私の読経の中、一人一撞きして煩悩を払い、新年の多幸を祈念していきました。
 撞き出される鐘の音色はさまざまです。『心を込めて、ひとつ、静かに撞いてください』という注意書きがあるにもかかわらず、力任せにたたき付けて(どうだい!)と、したり顔をする人もいます。耳が壊れるかと思うほどです。喧嘩したような、割れた音がします。
 そうかと思えば、いかにも力のありそうな若者でこちらも警戒していると、驚くほどそーっと撞こうとして、蚊の鳴くような音しか出ずに苦笑いしたり…。加減はなかなか難しいのですが、それでも心を込めて撞こうとすれば、自ずと一つ一つの動作が慎重になっていって、いい音色になることが多いものです。
「鐘を撞くときは仏さまを撞き出すつもりで。灯明をつけるときは仏さまの目を明るくする心で。掃除するときは仏さまの体を拭うつもりで」とはある禅僧の教えです。

 私が修行でお世話になった老師さまは、勤行のときに使う本堂の大磬の音に対して厳しい指導をされるのが常でした。お経を始めるときに「ゴーン」「ゴーン」「ゴーン」と三つゆっくりと鳴らすこの音が、同じ音に聞こえなければいけないとおっしゃるのです。
 一つ目を強く打つと余韻が残りすぎて二つ目の音が割れる。二つ目までうまくいって(よし、あとひとつ)と欲が出ると、得てして腕が縮んでしまって情けない音になる。
 三つそろうのはなかなか難しく、四苦八苦している私に、
「深さん、貸してみぃ、こうするんじゃ」
と、自らお手本を示してくださった老大師。
 何のためらいも気負いもなく、あっさり打っているように見えたそのしぐさから打ち出された音は、本当に三つとも同じ音色で、その静かな余韻は、寒い本堂にたたずむ私の心にしみじみと響き渡っていきました。
 禅では、打つ人と、打ち出された音とは別ではないと説きます。鳴っているのは鳴らし物ではなく、打った人そのものなのだと。打ったその人間が、音に現れるのだと。
 大磬の音ひとつに、禅の修行の奥深さを味わわせていただいたありがたいご指導のひとこまが、老大師亡き今となっても、美しい大磬の音とともによみがえります。

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明窓浄机

打ち出された音

文・絵 長島宗深