「富士ニュース」平成20年8月5日(火)掲載

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Meiso Jouki

 小さなトゲが抜けないとき。靴擦れでできたマメがつぶれたまま歩くとき。すりむいた膝でお風呂に入るとき…。
 私たちは自分の体の傷には敏感です。自分の痛みには、とても敏感です。たとえそれが小さな痛みでも。ところが、他人の痛みを自分の痛みとして共感するには、人としての成熟が必要なようです。

 息子が小学生だったころ夢中で読んでいた少年漫画をちらっと見て、びっくりしたことがあります。ふだんは童顔のかわいい少女の表情が一変したと思ったら、武器で瞬時に敵の首を切り落としてしまうのです。
 このマンガでは次々にこんなシーンが続きます。確かに主人公はカッコよく、絵も上手でわくわくするような展開になってはいるのですが、(このままではいけないな)と感じた私は、自分がマンガ好きなのをいいことに、子どものコミックを読んでみることにしました。そしてタイミングをみてこう話しました。
「あーあ。この人、殴られて血がたくさん出てる。きっと骨が折れちゃったね。痛いだろうね、苦しいだろうね。あっ!こっちの人は、首切られちゃった。死んじゃう。死んだらもう生き返れないのに…。このおじさん、顔は恐いけど、家族はいないのかなぁ、兄弟はいないのかなぁ、きっと悲しむよ。この主人公、どうしてここまでひどいことするんだろう」
 さらりと描かれた残虐シーンを開いて、こんなふうに子どもに投げかけてみたのです。
 はっとしてコミックから目をそむけた息子。無言でしたが、何かを感じたようで、しばらくそのコミックは手に取らなかったといいます。

 私はあまりくわしくないのですが、ときどき興味半分にゲームセンターをのぞいてみると、人を殴ったり蹴ったり、銃で撃ったりするゲームが、とても刺激的に、そして実にリアルに作られているのがわかります。何気なく後ろで見ていても、音といい映像といい、なんだか自分が超人になったように錯覚します。実際に遊んでいる人はなおさらでしょう。でも、無表情のまま指先ひとつで敵を次々に倒していくその瞳の光に怖さを感じるのは私だけではないでしょう。そしてこれは家庭用のテレビゲームとて、使い方次第で近いものになるのかもしれません。
 いずれにしても、そこに、相手の苦しみや痛み悲しみを察しようとする、大人としての成熟は見あたりません。

 作家・司馬遼太郎さんが小学生に向けて、他人へのいたわりや優しさについて、万感の思いを込めて書かれた一文に、「…友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。…(これは)本能ではないから訓練をして身につけねばならないのである」とあります。子どもたちに必要なのは、悲しみや苦しみに鈍感になることではないのです。
 私の尊敬するお釈迦さまという方は、世界の人の苦しみを自分の苦しみと受け止め、一人でも多くの人を苦しみ悲しみから救いたいと、齢八十歳まで休むことなく行脚をされ、教えを説き続けたといわれます。
 最近は、自分が苦しいから他の者を苦しみの道連れにしてやろう、めちゃくちゃにしてやろう、という怖ろしく身勝手な無差別殺傷事件が続発しています。お釈迦さまの志を継いで布教に当たる使命をいただく身として、(なんとかしなければ)という思いは募るばかりです。

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明窓浄机

無差別殺傷事件に思う

文・絵 長島宗深