「富士ニュース」平成20年9月30日(火)掲載

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Meiso Jouki

 お彼岸から一週間。今年はヒガンバナがとても見事でした。彼の岸に咲く花、仏さまの世界に咲くといわれる花です。
 仏教ではこの「仏さまの世界」を「彼岸」「浄土」「涅槃」「悟り」などと呼び、理想の世界として説きますが、禅ではこれをすべて、心のあり方の問題としてとらえます。
 私は毎年、秋彼岸のお中日には、かつてお世話になった修行道場・龍澤寺を訪れて、老師さまの法話に接するのを楽しみにしてきました。昨年のお話はまさにこの「仏さまの世界」にふれられた内容でした。

私の師匠・中川球童老師がまだ雲水修行中の時のお話です。ある時、住職の代理でお茶会に出席されたそうです。何とか粗相もなく代理を務め、やれやれ僧堂に戻ると住職が尋ねます。
「どうじゃった」
「はい。肩が凝りました」
 正直に答えた老師は、すぐさま一喝されます。
「相手を見るから肩が凝るんじゃ!」
 禅問答です。修行中のあらゆる場面を通して、師匠が弟子に生きた教えを伝えようと、虎視眈々とその機をうかがうのは禅の世界の常です。雲水はどんなときも油断はできません。
 球童老師はおそらくお茶席で、(みんなに見られている)という妄想にとらわれ、(うまくやってやろう)という執着にとらわれたのでしょう。だから、一期一会の出会いを愉しんでお茶を味わうことができず、自分で自分を追い込んで肩が凝ったのです。お茶を味わうときには、無心で味わえばよかったのです。そのことを師匠からずばりと突きつけられたのです。

 こんな若き修行のひとこまをを振り返られた後、老師はにこやかにこう続けられました。
「みなさんはいずれ閻魔さんのところで審判受けるじゃろ。そんなとき、地獄は嫌だとか、天国がいいとか、思うんじゃないですか? それは、心に固まりがある証拠ですよ。『おまえは地獄に行け!』と閻魔さんに言われたら、素直に『はい、ありがとうございます』と低頭して(頭を下げて)、閻魔さんと、こう握手して、仲良く相撲でも取ればいいんじゃ! 心しだいで天国・地獄!」
 楽しそうに、そう言われたのです。

遊戯三昧という禅語があります。子どもが夢中で砂遊びをするときのように、とらわれや曇りのない自由奔放な境地で、ひとつのことに集中することです。無心になることです。
 どこに行こうが、どういう状況に身を置こうが、その場で自分がすべきことに無心に向き合い、むしろその状況を愉しんでいく遊戯三昧。これが禅の「仏さまの世界」の心のあり方です。
 かつてお茶会で無心になれず肩の凝った老師も、その後の長い禅修行で、心の中の「かたより・こだわり・とらわれ」といった妄想執着がすっかりとれて、こんなにも晴れやかな、軽やかな心に落ち着かれたのです。
 この法話のわずか三か月後に急逝された球童老師。私にとっては、師からのこの上なく尊い、最期の教えとなりました。

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明窓浄机

遊戯三昧(ゆげざんまい)

文・絵 長島宗深