「富士ニュース」平成20年12月23日(火)掲載

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Meiso Jouki

  胡麻はお好きですか?
 最近では、栄養価の高さに加え、老化防止効果で一段と注目されているようです。私たち仏教の世界でも、胡麻豆腐をはじめ精進料理に欠かせない食材として親しまれてきました。わが家では毎朝納豆と一緒に食べるだけでなく、何かにつけて胡麻のお世話になっています。
 この胡麻、なにしろ小さな粒ですから見過ごしがちなのですが、食後によく器を見ると、淡い小さな胡麻がいくつか遠慮がちに残っている場合があります。以前ならさほど気も留めなかった、ささいな食べ残しですが、仏教に親しんでくるにつれ、この胡麻の一粒を見過ごすことができなくなり、四苦八苦しながら胡麻をつまみ上げては口にする私です。

たかが胡麻一粒に何を大げさな、と思われるかもしれません。でも、そうせずにはおれない、お釈迦さまのエピソードがあるのです。
 お釈迦さまは、悟りを開かれる前、大変な苦行をされたと伝えられています。イバラの敷物の上で寝たり、長いあいだ息を止めたり、と、私たちの想像を絶する厳しい修行に挑まれたのです。
 そのひとつに「減食」がありました。豆粒・米粒・胡麻粒だけを食べて命をつないでいきます。その量を少しずつ減らしていき、最後には、一日一粒、さらには一週間に一粒、と、絶食に近い状態まで進まれたというのです。
 命がけの苦行、と言葉で言うのは簡単です。でも(一日わずか一粒だけ口にすることが許された胡麻を、お釈迦さまはどんな思いで噛みしめられたのだろう)…そう思うと胸がしめつけられる思いがします。そして、(この小さな一粒があったからこそ、お釈迦さまの命がほそぼそと保たれたのだ。そして、この一粒があったからこそ、お釈迦さまはやがて悟りを開かれて、仏教が今に伝わったのだ)…そんなさまざまな思いが浮かび、一粒の胡麻が何だか無性にいとおしく感じられるのです。

 私たちがよく食前に唱える言葉として『食事五観文』というお経があります。
「一つには功の多少を計り…」に始まり、食べ物の命に感謝し、食事をお世話してくださった人々に感謝し、さらには貪ったり欲張ったりしないことなどを一つ一つ誓っていく言葉です。
 その中に「四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり」とあります。食事は、心と身体の健康に必要な『大事なお薬』と心得ます、という意味です。お釈迦さまの命の源となった胡麻一粒のごとく、食べることの意味の原点はここでしょう。

 飽食の時代にあって、私たちはともすると、グルメブーム、ブランド志向に溺れ、また早食い・大食い競争に興じては食べ物で遊ぶことを楽しむ風潮にありがちです。こんなことに心を許していていいのでしょうか?
 ときにはふと箸を休め、食事することの原点を思い、さらに、食事を口にさせていただけるありがたさを、しみじみとかみしめてみたいものです。

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明窓浄机

一粒の胡麻

文・絵 長島宗深