「富士ニュース」平成21年1月20日(火)掲載

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Meiso Jouki

  手水鉢の水も凍る厳冬の朝。白い息を両掌に吹きかけながら、足早に観音堂へとご祈祷に向かう道すがら、寒さの中でたくましく生きる草木に、ふと心奪われることがあります。
 霜柱で押し上げられた土から離れまいとふんばるタンポポ。カサカサになりながらも枝にしがみつく柏の葉。野ズイセンの葉は身をよじらせながら、花を守るように取り囲んでいます。見上げれば椿と山茶花は今が花盛り。そのそばでは白木蓮や寒桜がもうしっかりと小さな蕾を準備しています。
 つい(寒い、寒い)とぼやいてしまう私たちの周りに、凛としてその生命を全うしようとしている草花の姿を見つけ、はっと感動させられます。そしてある高僧の言葉が胸に迫ってくるのです。

「真理を黙って実行するのが大自然。褒められようと褒められまいと、時が来れば花は咲き、自分のやるべきことを黙ってやって去っていく。そういうことが実践であり、教えであり、真理だ」
 百六歳の長寿を全うされた、前・永平寺貫首の宮崎奕保禅師がテレビで語られていた言葉です。
 この厳冬期に、ことに「黙って真理を実行」している自然の姿として日本人に好まれてきたのが、「歳寒三友」と賞される松竹梅です。松も竹も風雪や厳冬に耐えて緑を保ち、また梅は、寒さの中から他の草木に先駆けて花を咲かせるからです。

 禅語にも、この三つの植物は度々登場します。
 今、お寺の床の間の軸物は『松寿千年翠』です。常磐木である翠(緑)の松は、一般的には不老長寿を思わせる縁起のいい植物ですが、仏教の世界では不変の真理の象徴でもあります。そして更には、松が日本のどこででも見られるように、真理はいつも私たちの目の前に輝いており、けっして手の届かない、遙か遠くの崇高なものではない、というメッセージでもあるのです。
 梅は『寒苦を経て清香を発す』と伝えられるように、厳しい試練が生命を鍛え上げ、徳を磨き人格をつちかう、という教えを学ばせてくれます。
 スクスクまっすぐに伸びながらも、しなやかで風にも強く、それでいて節目正しい竹からは『松に古今の色なく竹に上下の節あり』と、節操や慎みを学びます。

 かつて修行道場でお世話になっていた頃、正月飾りとして、細い青竹で何本も花立てを作りました。それをお堂や石仏のそばの地面に打ち込み、水を注いで、ただすっと伸びただけの松の一枝と、まだ蕾もない梅を一枝差し込むのです。すっかり自然にとけ込んでしまうような松・竹の緑と、枯れ枝のような梅だけの地味なお飾りをいくつもしつらえながら私は(いくら枯淡を重んじる禅道場とはいえ、どうしてこんなに味気ないお飾りにするのだろう)と不思議に思ったことでした。
 松の枝振りの妙もなく、梅の清香さえもない禅道場の正月飾りでしたが、今にして思えばそこにはちゃんと、黙って真理を実行している大自然と、そこから学ぶべき禅の教えがありありと示されていたのでした。

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明窓浄机

松竹梅

文・絵 長島宗深