「富士ニュース」平成21年2月17日(火)掲載

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Meiso Jouki

 二月十五日は涅槃会。お釈迦さまが亡くなられたご命日です。妙善寺では今年も、お釈迦さまの入滅の様子が描かれた「涅槃図」を本堂に掲げて、お釈迦さまの遺徳を偲びました。

 この涅槃図には、静かに横たわるお釈迦さまの足元で涙する、一人のお年寄りの女性が描かれています。
 臨済宗妙心寺派の布教師である松原泰道師ゆかりの逸話によれば、彼女は若い頃、各地で説法の行脚を続けられているお釈迦さまの噂を耳にして、ぜひ一度法話をうかがいたいと思い続けていたのだそうです。ところが、なにしろ二千五百年も昔のこと、現代のように情報網は発達していませんから、風の便りにお釈迦さまの居場所を伝え聞いてすぐに駆けつけても、いつも一足違いで立ち去られた後。お会いするチャンスが得られないまま、娘さんはいつしか百歳を超えてしまったそうです。

ある日、とうとうお目にかかれるときが訪れました。近くの沙羅の林にお釈迦さまがいらっしゃるという知らせが届いたのです。息せき切って訪れた彼女は、今度こそお釈迦さまにお会いすることができたのですが、時すでに遅く、お釈迦さまは涅槃に入られて(亡くなられて)しまっていたのです。
 絶望のあまりがっくりと膝をつき、お釈迦さまの御足に、ただ涙する女性。生涯にわたってひたすら切望しながらも、お釈迦さまの姿を拝むこともかなわず、お釈迦さまの声を聞くこともできず、お釈迦さまの説法にも、ついぞふれることもできなかった女性。
「万劫にも受け難きは人身、億劫にも遇い難きは仏法なり」とお経にあります。「一劫」というのは、気の遠くなるような長い時間の単位です。

 あまたある生物の中にあって、私たちが人間に生まれるだけでも困難だというのに、せっかく人間として生を受けても、その人生の中で仏法に出会うのはさらに困難だということです。涅槃図で涙する女性の姿は、ついに仏法とご縁を結べなかった様子を表しているのでしょう。
 

お経の内容を、文字やデータや映像に残すことができなかった昔と違い、幸いにも私たちは、さまざまな形からお釈迦さまの教えに触れ親しむことができます。それは、かの女性があれほど切望しても手に入れられなかった『人はどうしたら幸せになれるのか』という問いに対する答えなのです。
 仏教の教えについてたくさんの本が出ている今、『人はどうしたら幸せになれるのか』を説いている書物も多く見られます。でも、その答えを本当の意味で理解できている人は少ないように思います。涅槃図の中でお釈迦さまの足元で涙する女性は、今の世にもたくさんいるのです。
「道心を忘れた坊さんと、イベントしかしない本山の現状を見れば、寺離れは致し方ないかもしれない。でも仏教離れはいけない! 仏教は、生きる智慧の宝庫なのです」
とは、鎌倉円覚寺・足立大進管長さまの言葉です。
 この生きる智慧の宝庫の扉を開け、さまざまな機会を通じてみなさんに紹介していくことこそが、私たち僧侶のひとつの大きな使命といえるのです。

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明窓浄机

涅 槃 図

文・絵 長島宗深

妙善寺涅槃図