「富士ニュース」平成21年6月9日(火)掲載

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Meiso Jouki

  前回、仏教というのはどうしても必要なものではないけれど、あると人生が豊かになる智慧の教えだとお話ししました。「障子の引き手」や「鴬の声」のようにです。
『第二の矢』の譬喩も、その智慧の一つです。私たちに向かって、さまざまな矢が飛んで来ますよと、お釈迦さまは説かれるのです。

まず「第一の矢」。人間関係や仕事、病気などで出会う不都合や、それに伴う不愉快な思いです。
 嫌なことを言われて(悔しい)、歳を取って(不安だ)、怪我をすれば(痛い)、病気になって(辛い)、大切な人を失って(悲しい)、という苦しみの矢が心に突き刺さります。これはいわば、生きている以上、致し方ない直接的な苦しみです。

 問題はこの後です。出会ったことに対し、次から次へと怒りや不安、不満の心を起こし、それがいつまでもおさまらず、自分で自分に「苦しみ」という『第二の矢』を放ってはいませんか?と、お釈迦さまはおっしゃるのです。
 例えば、誰かに言われた言葉をこころよく思わず、いつか仕返ししてやろうという逆恨みの心をずっと持ち続け、そんな自分を醜く思ったり、嫌いになったり…。
 また、相手の仕打ちへの腹立たしさのあまり、次から次へとまわりに八つ当たりして、いつまでも不機嫌だったり…。
 あるいは病気という第一の矢を受けたとき、(どうして自分ばかりが! なぜこんな忙しい時に? みんなはあんなに元気なのに私ばかり)と、憤っても仕方のないことをいつまでもこだわって、第二の矢、いや第三第四の矢を受けることになったり…。私たちは、こうして苦しみを深めてしまうのです。

では苦しまないためにはどうすればいいか?「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと水の流るる」と、甲斐和里子さん(京都女子大創設者)が詠われるような心持ちで、私たちの身に起こる不都合に対処して行くにはどうすればいいか?
 まず一番のポイントは、「この世は何につけても思うようにならない苦しみの世界である」という真実をしっかりと心に刻むことです。なぜなら私たちは「この世はおおかた楽しい場所にちがいない」と勘違いしていることが多いからです。
 嫌だなあと思うことも、不都合と思うことも、すべて私の人生の彩りと見て、まず逃げずに真っ正面から受け止める。さらにそこに積極的に価値を見いだして、やわらかく付き合っていく。そうする中に、むしろ本当の楽しみを見いだしていく。こんな創造的な生き方の構えを、臨済宗の祖・臨済禅師は「嫌う底の法無し」(嫌うものがなければ心配も不安も苦しみではない)と示されるのです。

仏教というと、亡き人の供養のイメージや、あるいは生きている人のための現世利益の御祈祷というイメージが強いように思いますが、お釈迦さまはこんなふうに私たちの心のありようを細かくとらえ、その上で、どうしたら私たちが幸せに生きていくことができるのかという方法を伝えてくださっているのです。

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明窓浄机

第二の矢

文・絵 長島宗深