「富士ニュース」平成21年8月4日(火)掲載

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Meiso Jouki

 先日、勉強会で法話をする機会がありました。ところが、不覚にも体調を崩し、直前に声が出なくなってしまったのです。

 声の不調に気づいたのは前日の夕方のこと。徐々に声がかすれ、普通の会話もままならなくなりました。(こじらせては大変、でも一晩ぐっすり寝れば治るだろう)と、よくうがいをして早々に床につきました。
 ところが、夜が明けても声は出ませんでした。風邪声ならまだいい、ダミ声でもいい…でも全く音が出ないというのは初めての経験でした。そう、ちょうど耳元でする内緒話みたいな、音のない「声」なのです。
(どうしよう…)と、しばし悩みましたが、そうしていてもしかたありません。法話に代役はありません。どうしても私が務めるしかないのです。
 えいやっ!と起きると、着替えて外で発声練習をすることにしました。人気のない場所を探して、どうしたら少しでも言いたいことが伝わるか、試行錯誤です。吐く息の強弱、間の取り方、スピード、首の角度…同じ道を行ったり来たりすること一時間半。(これでやるしかない!)と腹を据えて法話に臨みました。

「みなさん…。おはよう、ございます…」
 マイクを頼りに、ゆっくりと、ひと言ひと言、かみしめるように始まった法話。聴衆の顔に(あれっ?)という戸惑いが浮かびます。必死で「声を、嗄らしてしまって」とお詫びすると、一様に落胆の表情が浮かびます。
 これまで声に関しては褒められこそすれ、がっかりされた経験のない私には大変な試練でした。(みっともない、恥ずかしい、格好悪い、逃げ出したい)…そんな思いをこらえ、ただ熱意と誠意だけで法話に取り組むしかありませんでした。
 ところが、時間がたつにつれて、聴衆の態度が少しずつ変わってきていることに気がついたのです。みんな身を乗り出し、少しでも私の方に耳を近づけようとしてくれています。自分から進んで話を理解しようという構えに変わってきていたのです。出ない声を振り絞って、お釈迦さまの教えを伝えようとしている私の思いが伝わったからでしょうか。
 こうして、何とか一時間の法話が終わりました。「ありがとうございました」と最後に一礼したとき、なんとかやりとげた安堵と、最後まで聞き苦しい声に付き合ってくださったみなさんへの感謝で、思わずこみ上げてくるものがありました。

 その夜、私の声を案じていた家内にありのままを報告すると、「私も御詠歌の先生方が熱心さのあまり声をつぶし、ガラガラ声で懸命に指導されている姿に、幾度か出会ったことがありますよ。そんなとき先生はとても辛そうだけれど、魂は確かに伝わってきた。みんな『法を伝えて身を枯らす』ことがあるんですね」…そんな携帯メールが返ってきました。
「法を伝えて身を枯らす」か。私は、何度も何度もこの言葉を反芻しながら、(教えを伝えるのに本当に大切なのは話術ではなく、お釈迦さまの教えを伝えたいという切なる願いと誠実さなのではないか)という確かな思いに包まれたのです。
 二度と味わいたくない辛い体験でしたが、すばらしい言葉にも出会えた、得がたい経験でもありました。 前

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明窓浄机

法を伝える

文・絵 長島宗深