「富士ニュース」平成19年1月 23日(火)掲載

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Meiso Jouki

  富士山の美しい季節になりました。
 澄んだ霊気の中、朝日に徐々に白い山襞を浮かび上がらせるその姿は神々しく、思わず手を合わせるほどです。
「いいねぇ、いつも富士山が見られて」
と、他県の友人からうらやましがられることがよくあります。その度に、霊峰富士を、いつでも、どこからでも身近に仰げるこの富士市に住んでいる幸せを、しみじみと感じます。

 こんな私にとってうれしい小冊子が、富士市から発行されました。『富士山百景』というガイドブックです。新聞で紹介されたその日のうちに、観光案内所でいただいてきました。市内で眺めることができる富士山絶景ポイントが、写真と地図でくわしく紹介された素敵な冊子です。これを手に富士市をひと回りすれば、ますます富士山が好きになりそうです。

 さて、妙善寺の玄関には、富士山の画に「東海天」という墨蹟が添えられた衝立(ついたて)があります。
『白扇倒(さか)しまに懸(か)かる東海の天』(石川丈山)と、漢詩にうたわれるように、雪をいただいた富士山は、東海の空に白い扇がさかさまにかかったようだ、というわけです。
 富士山は、禅の世界でもたびたび登場し、尊ばれています。幕末の政治家で、書・禅・剣の達人としても名高い山岡鉄舟作と伝えられる、こんなうたがあります。
『晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変らざりけり』
 禅に強い関心をもった鉄舟が、師を三島・龍澤寺の星定(せいじょう)老師と定め、江戸から走って参禅修行に通っていたある日、箱根で富士山を見て、はっと悟りを開いたときの言葉だといわれます。
 富士山は、お天気によって見え隠れします。雲がかかれば隠れて見えなくなります。山はいつも変わりなくそこにあるのに…。
 鉄舟が、ここで「もとの姿」とうたったのが、仏教の世界では「仏心(ぶっしん)」「仏性(ぶっしょう)」、つまり、私たちに本来具わっている仏さまの働きなのです。

 私たちには誰にでも平等に、仏さまと全く同じ、すばらしい智慧と慈悲の心が具わっています。そう信ずるのが仏教です。
 でも、それがなかなか私たちにはっきりと自覚できないのは、煩悩や迷いの「雲」が隠してしまっているから。つまり、せっかくの、すばらしい仏さまの心が、隠れんぼしてしまっているのです。その雲を払うのが、さまざまな修行なのですね。
 富士山は、私たちの中の「仏さまの心」の象徴として、禅の世界ではとらえられているのです。

 さて、お正月に、遠く九州の先輩和尚さんから届いた年賀状に、こんな添え書きがありました。
『年とるごとにだんだん高くなる富士のお山』
…「一度、富士山に一緒に登りましょう」と約束して数年。私から何の誘いもないことへの、さりげない?催促です。
 世界遺産登録申請、富士山検定…と、近年、ますますその価値が見直されようとしている富士山。
 灯台下暗しにならぬよう、今年は久々に、六度目の登頂にチャレンジしてみようと思います。

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明窓浄机

富士山

文・絵 長島宗深